蒼穹の叡智ーとある大学生の備忘録ー

旧帝落ち地方公立大学3年生。ある現象の背後に存在するものを見抜いて、言語化するブログ。

生まれ育った環境と子どもを取り巻く問題

 我が国の子どもを取り巻く社会的な問題には貧困、虐め、児童虐待不登校体罰児童ポルノ、教育格差、家庭内暴力、引きこもりなどといった複雑かつ多様な問題がある。子どもの人権については貧困や飢餓、紛争で苦しんでいる子どもが世界中で現在でも数多く存在しているのが実態であろう。

 しかしながら、例えここで示されたような特定の問題を示す社会的な記号はなくとも、それらを明確に表す表現が用いられないだけで本来は社会的な問題として認識されるべき重要事項が見過ごされてきていて、そういった事柄は潜在的に数多く存在しているのではないかと最近考えるようになった。

 

 問題…それはひょっとしたら、クラスで無視されていることかもしれない、必要なものが買えないこと、学校に行くのが嫌なこと、家に居場所がないことかもしれない。

 

学校と家庭という固定的な空間を生きる子供にとって、こうした困難に直面した時に、心を許して打ち明けることができる関係性をもった人は必ずしもいる訳ではない。子供は「心のもやもやした感じ」を明確に表すことばを持たないだけで、不穏な雰囲気を感じて心を痛めること、孤立の中に閉じ込められていること、そんな誰もが知っている言いようもない不安感に襲われ、苦しむ子どもはきっと沢山いるのだろう。

 

そうした時に、赤の他人である周囲の大人が手を差し伸べることは決して容易なことではない。

 

言うまでもなく子どもの人生の歩みには、本人が生まれ育った家庭環境が多分に関係している。

 

 そして今ある家族の姿は長年の積み重ねの結果としてその形になっているということを我々は念頭に置かなければならない。親自身が表層的な事象にとらわれ、子供に対して真摯に向き合わず、温もりや人間未に欠けた育て方をすれば、それは問題行動として跳ね返ってくることは往々にしてあるのだ。

 

たとえ成長過程において現実社会の矛盾や歪みの中で世の中や人に対する不安や不信を抱いたとしても、人間に対する根源的信頼感を失わせず、当人を踏み留まらせてくれるものはそれまでの人生で培ってきた「大切な何か」であるのかもしれない。

 

『「存在の世話」をいかなる条件や留保もつけずにしてもらった経験が、将来自分がどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの〈信頼〉を失わないでいさせてくれる。』

 

鷲田清一氏の著作にあるように何の見返りや条件もなく、自分がただそこにいるというだけで世話をしてもらう。たとえ記憶に鮮明に残らずともそういう経験があるかないかということが自分自身が生きることへの確かな意味を失わせないでくれるのであろう。

 

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