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旧帝落ち地方公立大生のブログ

地方公立大学2年。品格があって、奥深く、それでいて分かりやすい文章を目指して綴っていきます。ある事象の背後に存在する本質を的確に捉え言語化して表現したりします。

語彙力の有無が知的能力の差異を規定するのか

私たちが特定の人を“頭の良い人”と評する際に、

その人が話す内容(=言葉)

即ち【物事に対する回答や認識や判断や行動が精緻で、合理的で汎用性があるということを主として基準にし、それらを当人のとった行動や発話行為を通して感じ取ることで、その人が知的な性質を有しているか否かを判断する】のではないか僕は思っています。

これは単にその人の語彙力が豊富であれば、そこに聡明さを感じ取ることが出来るのかというとそうではないのではないでしょうか。

何故ならば、そこで使われる語が文脈に適合し、主張を裏付けるに足る役割を果たしていなければ、聞き手側は“その人の賢さを認識できない”からです。

単に難しい言葉を使用していても、そこにその言葉を用いる必然性がなければ《ただの痛いやつ》であるという印象を与えてしまう可能性を避けられません。


それでは、ボキャブラリーが豊富であるという事は実際にどういった意味を持つのでしょうか。

この問いに対して非常に明晰な解答を示した文章を発見しました。

『用語の抽象性の差異は知的能力によるのではなく、個々の社会が世界に対して抱く関心の深さや細かさはそれぞれ異なるという事に拠るのである』

要するに、
《ある領域に関して語彙や概念が豊富であるということはその領域に対して深い関心を持っているということ》を意味するわけですね。

例えば、“シンギュラリティ”という言葉は日本語で
「技術的特異点」と訳されますが、

この言葉が
《現在のテクノロジーが進歩し続けると、ある地点で人間の想像力や生物学的な限界を越えた超越的な知性が誕生するという仮説であり、

さらに知能を有したコンピューターであるAIが自分よりも優秀なAIを作り出す...ことが連鎖的に行われ、人間の代わりにテクノロジーを爆発的なペースで自己進化させ、人間の頭脳では予測不可能な未来が訪れる》

といった事柄を知っているか否かというのは、単純にテクノロジーや未来予測といった分野に造詣が深いかどうかを意味するに過ぎないのではないかということです。


そもそも一部の例外的な存在を除けば、人間の発達段階に大した差はなく、思考様式や実利的関心が異なるだけでいちいち比較して論じること自体無意味な事のように感じます。