旧帝落ち地方公立大生のブログ

地方公立大学2年。ある現象の背後に存在するものを見抜いて、言語化するブログ。

高学歴・高収入なのに残念な人とは

たとえ年収や学歴が高くとも、人として尊敬できないなと思うような方々をちらほらと散見します。

僕はエリートの本来、《単に社会構造上における上位者ではなく、社会全体に対して貢献や義務を負った存在であるべきだ》と思っている。


例えば、ヨーロッパの伝統ある国々では、高貴な身分であるからには「公共的な使命」が自分に託されているという「ノーブレス・オブリージュ」の観念が根付いている。

社会的に上位に位置する人が「義務」として、弱者に対して施すべきだという意識

早期選抜というシステムによって10-14歳時の段階で、「国家を担っていくエリート層」と「社会を構成する人々」が既に分かれてながらも、お互いが尊重し合い、自身に与えられた役割を自覚し、それぞれが使命を全うしていく...といった感じですね。

こういった制度が日本の教育システムよりも優れているかどうかは一概には言えませんが、少なくとも伝統的に存在する一つの方法であることは間違いないです。

また、日本においても明治維新の頃、“欧米諸国に追い付く”という実用本位の目的で作られた旧帝大旧制高校では《自分たちに日本の発展や未来が託されているという歴史的使命を委ねられているといった自覚を持っていた層》が国家の主要な政策に携わっていたようです。

彼らは自分が“選ばれた人間”であるという自覚や選抜意識を持ち、自国の発展の為に進んで重荷を引き受けようとする気概を持った真のエリートであったと言えるでしょう。

こうした風土は高等教育が極一部の限られた者にしか与えられない状況下で生じることが多く、“大学全入時代”と呼ばれるように教育が大衆化した現在の日本では涵養されにくいと思います。


しかしながら、現在の日本の高等教育で優秀な成績を収めてきた層の多くは管理教育や受験競争の弊害を受けてしまっていることは周知の事実です。

とりわけ、
《学習という本来、自己を成長させる為の営みが、一方で学力面では成績を伸ばしながらも、他方で情緒的、人格的な陶冶とは結びつかないケースが多くなっている》

教育内容は競争のための道具に貶められ、本質的に内面化されることはなくなっている。

拝金主義を信奉し、目先の利益を得ることに奔放する資本家や、地位や名誉のためにステータスを追い求めて高級職を目指す(人の生命を救うのではなく職業威信のために医師を志す)といった典型的なエリートはその代表例でしょう。

学歴、試験の点数といった数値的に示される外形的な格付け基準に基づいた評価を過大視しすぎては見誤ってしまう側面も往々にしてあります。

人は愚かなもので、特定の地位にあるというだけで自分に力があると思ってしまう。
本来ならば「残した実績や本人の人格」といったものに対して評価を受けるべきです。当人が何も成し遂げていないうちから偶像崇拝して英雄に祭り上げてはいけません。

その結果、肥大した自己愛に見合う評価が得られないことで、膨れ上がったプライドに食い潰されたり、社会的弱者に対して侮ったり搾取の対象とみなしてしまうような意識が生まれてしまうことに陥りかねません。

エリートであるならば尚更、自分の私的利害の為ではなく、社会を是正し、弱い立場に置かれている人たちを助ける気概をもっていてしかるべきだと思います。

社会成層の中で上位者として君臨するエリートは、自身の能力を現在の世界のシステムを理解しそれを巧みに活用することで自己利益を増大させることに注力するのではなく、《公共の利益のために行動し社会をより良い方向へ導くことに利用して欲しい》というのが僕の願いです。

極端にリベラル的な発想になってしまいましたが、《社会全体を見据えた上で『最適化』を図るためにどうすべきかを個々人が探っていくこと》が何よりも大切なのではないでしょうか。

そうしていかなければ、たとえ経済は発展しても社会が回らなくなってしまう。そういう非常にリスキーな世の中を僕らは今生きているのです。