旧帝落ち地方公立大生のブログ

地方公立大学2年。ある現象の背後に存在するものを見抜いて、言語化するブログ。

“情報”格差社会において大切なのは知識量ではなくクオリティーを吟味する能力だと思う

なかなかセンセーショナルな題名ですね(笑)

普段の僕はあんまりこういった話を基本的にはしないのですが、個人的にかなり重要なことだと思っています。

個々人の意識的な問題なので、公のなかでまず話の話題に挙げることはありませんが。

それは主に、“自分が所属する組織や集団が無意識のうちに排除してしまったものは、僕らの視界から消えてしまい、自分たちの思索の主題にあがることは極めて稀だから”という理由からです。

その為、以下の内容は自戒を込めている(自分自身も同じ様に陥りかねないため、この教訓を自分にも言い聞かせる必要があると感じている)側面も大きいです。


普段よく考えるのですが、所詮僕らはこれまで生きてきた中で触れてきた情報からその時々に最適解と思われるものをその都度選択しているに過ぎません。

そしてそれらを選ぶ選択意欲は、時代背景といった歴史的文脈や権力を握る者による情報操作によって形成され、一見「自明の理」と思われるものでも、人間の関わるあらゆる行為には『人為』が介在する以上、すべての情報の発信者には作為的あるいは無作為的なものであれ、そこには必ず一定の『意図』が存在します。

しかしながら、内田樹さんも仰るように、

《私たちは客観的事実よりも主観的願望を優先させる
「世界はこのようなものであって欲しい」という欲望は「世界はこのようなものである」という認知をつねに圧倒する》

誰かの意図によって形成された主観的なものに過ぎないものを、僕自身も含めて多くの人々が、

《自分にとって都合よく解釈できて理解しやすい事実だけを容認してしまう》

しかしながら、既に選ばれた情報を何かがおかしいと疑問を抱かず、細部を見て知ろうともせず、何ひとつ問題意識も持たずに生きていくことは恐ろしい事だと思います。


なぜ僕がこのような事を主張するのかというとインターネットが普及し誰もが容易にアクセス可能となっている現在、良質な情報を選択的に得るために必要なのは書かれている情報の『質』、言い換えると“クオリティー”を判断する能力だと個人的に思っているからです。


具体的なもので例えると、

情報リテラシーが低い人の場合、ある情報を得た際に、

Level.1
Level.2
Level.3

といった様に3段階でしか評価できない。

一方でリテラシー能力が高い人は、

Level.1 Level.2 ••• Level.9 Level.10

といった形で、流れてきた情報の質を

・ソースの信頼性
・文脈
・関連性
・情報量
・どの層をターゲットにしているか
・発信する意図
・物事の因果関係
・言語表現

といった多角的な観点から客観的に評価できる知性を有していると思っています。

1つの出来事の中にたくさんの解釈が潜んでいる中で、どれが正しくてどれが間違っているかを決めつける事は原理的に不可能なことです。

だからこそ物事の一側面では測り得ないものを、自身の価値観や周囲の人の判断だけで決めつけてしまうことは時に恐ろしい結果に繋がる可能性も十分にあり得ると思います。

情報は持っている量だけではなく、その『質』も考慮する視点を忘れてはいけないという事ですね。

ただ、どんな情報(虚偽や歪曲、妄想、デマも含めて)であれ、世の中の仕組みや人の価値判断について程度の差はあれど有益な示唆を含んでいることは否定できない事実だと思います。

《精度の低い情報や、虚偽の情報からでさえ、私たちは「精度の低い情報を発信せざるを得ない必然性」や「虚偽の情報を宣布することで達成しようとしている功利的目標」を確定することができる》
(引用:内田樹情報リテラシーについて)

結局のところ、今の自分に残されている手段は現代社会を多様な視点から見て解釈し、それらを徹底的に理解した上で現実として冷静に受け入れて、その上で何を取るかを自分で決めていくしかない。

今はマジョリティに追従していけば何とかなるという時代ではないのだから。