蒼穹の叡智ーとある大学生の備忘録ー

旧帝落ち地方公立大学3年生。誰かの人生にほんの少しだけ影響を与えられるような文章を書きたい。

努力は必要、けれど人は努力では幸せになれない(2)

前述した記事の続きの内容です。

かつての自分は一流大学や経営者、政治家、弁護士、医者等々の社会的地位の高いステータスに人一倍憧れを持っていました。

でも最近少しずつ、それはあくまで人に対してではなく《地位や肩書きや経歴》に対して憧憬の念や憧れを抱いていただけだったのだと考えるようになりました。

僕はこれまで文字どおり、血の滲むような努力をしてきた時期がありました。

周囲の人間が遊んだり、楽しそうにしている中で死ぬほど努力してきました。
「自分には才能が無いからこの道しか残されていない」と本気で考えて思っていたからこそ、当時の自分はそれはもう必死でした。

  • 高校時代の部活でも、練習が終わって帰宅した後も高校の練習メニュー以外の他の強豪校のトレーニング方法や海外等の最新の理論を自分で調べて一人で実践したり、模索していました。
  • 受験勉強の時も、図書館に閉館時間の最後まで粘ったり、出掛ける時も携帯📱は持たずに移動中も単語帳やテキストを読んだり、朝4時に起きたりして勉強時間を捻出していました。
  • 大学に入ってからも、与えられたものだけでは上にはいけない、自分から取りに行って得たもので闘うんだとか考えていたので、授業内容も基本的に先取りして、自分にとって役立つと思われる有用な情報だけ聞いて残りの時間は全ては自分の勉強に当ててました。

“全てはより高いレベルに到達するために”

それだけやれば一定程度の実績は治めることができるようで、何だかんだで本来的に有していた能力と相まって比類ない伸びと成長は実感できました。

人が努力するのは、努力したら報われると思っているからです。しかし、努力したからと言って、必ずしも報われるとは限りません。

寧ろ努力して結果自分が得たのは肥大した自尊心と無駄に大きなキャパシティと膨大な知識と幾度とない挫折と敗北感であって自分の心が満たされることはなかった。

あれ程までに自分が憧れを抱いていたものの実体はそんなに生易しく描いた理想通りのものではなかった。

人は自身が劣等感や不全感を持っている対象にこそ価値を見出し追い求めようとするのでしょう。
だからこそ其れ等を得るために、努力をする。

しかしその努力はやがて執着を産み出します。執着は、自分より劣った者への優越感や努力しない他者への攻撃性、喪失への過剰な畏れとして立ち現れます。

僕は自分に劣等感があると思いこんでいたからこそ、それを乗り越えるために自分の未来について人一倍深く考える必要に迫られたわけですが、そのおかげで自分の才能と役割に気付くことはできた訳なので、捉え方次第では恵まれていたのかなあと。
(中略)
これを読まれた方の中で、努力が報われない、頑張っても思い通りにならないと嘆いている方がいらしたならば、

今一度、自分を見つめ直してみて別の生き方を探してみてください。

報われなさ過ぎて、壊れてしまう前に。

手遅れになってしまう前に。

これまで述べてきた僕自身が考える努力の定義は、

【外的な規範・評価軸と自分の掲げる目標とする姿を重ね合わせ、現状を変えるためにそれに向かって自己犠牲を伴いながらも、対価を得るために自らの有する資源を投じる行動】

一般的な努力のイメージに
《競争などの外的要因+自己犠牲を伴う+見返りを求める》が加わったものと考えてください。

たとえば、
部活でレギュラーを獲得する
大学受験で志望校に合格する
バンドマン🎸となって売れる
甲子園に出場したい
箱根駅伝に出たい
一流企業の内定を勝ち取る
といった類のものです。

あくまで「自己完結型の目標」
身体を鍛える、カラオケを上達させる、絵が描けるようになる、というのは僕の定義内での努力には入らないということを予めご了承ください。


【努力のデメリット】

⑴払った対価の割に得られるものが少ない

努力には「等価交換」の原則が成立しない場合が多いんです。

努力によって獲得できるものは自分が費やした労力、時間、資源に比して限られています。

努力してきた人は“自分はこれだけやってきたんだ”という自信を持てる一方で、これだけやってきたんだから望み通りの結果を得られるはずだと『見返りを求めてしまう』のですね。

「努力は裏切らないって言葉は不正確だ。正しい場所で、正しい方向で、十分な量なされた努力は裏切らない」(林修)

しかしながら、この言葉に示されているように、成否は適切な量・質・方向性・方法論を要する努力、才能、環境、適正、運といった要素が複合的に絡み合った結果成立します。

⑵努力が報われなかった時のことを想定しづらい

つまり、リスクマネジメントが困難な点です。

近代日本🇯🇵は江戸時代の身分制社会から解放され、家柄や身分ではなく努力によって高い地位に辿り着くことができるという希望に満ちていたそうです。

「立身出世主義は人々に夢や希望をあたえる。しかし、叶えられなければ、社会への反逆や抵抗、士気の低下などによって一転して危険なエネルギーにも転化する代物である」(立身出世主義―近代日本のロマンと欲望より)

けれども現実的には、〈努力すれば何とかなるはずだ〉という希望は多くの場合、裏切られる可能性の方が高いです。

そしてその希望が裏切られたときの絶望はその希望の大きさに比例します。

報われなかったときの悲惨な結末も考慮に入れるべきです。

せっかく努力し続けられる精神力や体力を有しているのであれば、 命を擦り減らしてしまう前にその才能を他の分野に活かすべきだと思います。

⑶そんなに頑張れる人って少数派

多少の尊敬はされど、大抵の場合かなりの確率で浮くか、距離を置かれます。

あなたは私たちとは違う人なんですね、
と心の中で一線を引かれてしまう事もあります。

さらには努力しない他者に対して攻撃性を帯びた意識が生まれてしまうことも往々にしてあり得ます。
(「自分がこんなに必死になってるのにあいつらヘラヘラしやがって😡」と)

⑷上には上がいる
世の中で輝かしい実績を残した人の陰には、数多くの《実績を残せなかった》人が存在し、その上に成り立っています。

そもそも努力できる人というのはベースとしてある程度は才能があったり優秀な人である場合が多い。
そしてそれ故に“自分ならやれる”と勘違いしてしまう。

僕自身も中途半端に才能があったが為に、
「お前ならやれるよ」と周囲から期待され、頑張っても結局だめで潰れるという事を何度か繰り返してきました(学習能力がない)

本当に高次元なレベルでの競争は、選ばれた人間同士の過酷な生存競争が行われています。
自分の投じられる資源の限りを尽くしても、勝てる見込みがない場合、最後は命を削って闘うという手段を取るしか術がなくなります。

その結果、無残な結果に終わった場合、

“こんな思いをするくらいなら初めから頑張らなければよかった”と、毎晩泣き明かす地獄のような苦しい日々が続きます。

けれども人には誰しも人生の中で必死になって努力しなければならない時期が何度か訪れるときが必ず来ます。

「そんな時はどうすれば良いのか」と尋ねられると、

基本的には
《自分に才能がある、適性があると思える分野or幼年期に他者から凄く褒められたり認められた分野or一つのことを何年も続けられる分野で頑張るべき》だと思います。

僕は〈努力し続けられる〉ことも一つの才能だと思っているので、成功可能性をしっかりと吟味し、ダメだったときに採れる選択肢を残しておいた上での努力は大切だと思っている。

ただ可能な限り、

『自分が勝てる場所で勝負する。ここだと決めたからには最大限の努力をする。つまり、大して努力しなくても勝てる場所で、誰よりも努力をする。それができれば、もう負けることはないはずです。』(林修)

闇雲に頑張っていればいつか報われるはずだと信じてしまうのは非常に怖い考え方だと思います。

ただ様々な挫折経験をすれば、自分の能力を正確に見積もることが出来るようになるので、等身大の自分を見れるという側面もあるので一概には言えないですが。

《失敗に終わったけど、挑戦して分かったのは自分の“限界”だった》