旧帝落ち地方公立大生のブログ

地方公立大学2年。ある現象の背後に存在するものを見抜いて、言語化するブログ。

努力は必要、けれど人は努力では幸せになれない

かつての自分は一流大学や経営者、政治家、弁護士、医者等々の社会的地位の高いステータスに人一倍憧れを持っていました。

でも最近少しずつ、それはあくまで人に対してではなく《地位や肩書きや経歴》に対して憧憬の念や憧れを抱いていただけだったのだと考えるようになりました。


僕はこれまで文字どおり、血の滲むような努力をしてきました時期がありました。

周囲の人間が遊んだり、楽しそうにしている中で死ぬほど努力してきました。
「自分には才能が無いからこの道しか残されていない」と本気で考えて思っていたからこそ、当時の自分はそれはもう必死でした。

  • 高校時代の部活でも、練習が終わって帰宅した後も高校の練習メニュー以外の他の強豪校のトレーニング方法や海外等の最新の理論を自分で調べて一人で実践したり、模索していました。
  • 受験勉強の時も、図書館に閉館時間の最後まで粘ったり、出掛ける時も携帯📱は持たずに移動中も単語帳やテキストを読んだり、朝4時に起きたりして勉強時間を捻出していました。
  • 大学に入ってからも、与えられたものだけでは上にはいけない、自分から取りに行って得たもので闘うんだとか考えていたので、授業内容も基本的に先取りして、自分にとって役立つと思われる有用な情報だけ聞いてあとは自分の勉強にあててきました。


全てはより高いレベルに到達するために。


それだけやれば一定程度の実績は治めることができるようで、何だかんだで本来的に有していた能力と相まって比類ない伸びと成長は実感できました。

でもその結果自分が得たのは肥大した自尊心と無駄に大きなキャパシティと膨大な知識と幾度とない挫折と敗北感であって自分の心が満たされることはなかった。

あれ程までに自分が憧れを抱いていたものの実体はそんなに生易しく描いた理想通りのものではなかった。


人は自身が劣等感や不全感を持っている対象にこそ価値を見出し追い求めようとするのでしょう。
だからこそそれらを得るために、努力をする。

しかしその努力はやがて執着を産み出します。執着は、自分より劣った者への優越感や努力しない他者への攻撃性、喪失への過剰な畏れとして立ち現れます。

僕は自分に劣等感があると思いこんでいたからこそ、それを乗り越えるために自分の未来について人一倍深く考える必要に迫られたわけですが、そのおかげで自分の才能と役割に気付くことはできた訳なので、捉え方次第では恵まれていたのかなあと。


人にはそれぞれその人に合った生き方があるはずです。

それに気付けたのは、大学に入って以降、自分を高く評価してくれた周囲の方々のお陰です。


人生は、自分が思い込んでいる以上に偶有生に満ちています。

特に恵まれた家庭で育ってこなかった人、苛酷な生い立ちのなかに理不尽な宿命で生きていかざるを得ない人ほどその惨めな境遇から抜け出すために努力へと駆りたてられる。

でもその結果得られたものが空虚なものだと知って絶望してしまう事が多いのです。

これを読まれた方の中で、努力が報われない、頑張っても思い通りにならないと嘆いている方がいらしたならば、

今一度、自分を見つめ直してみて別の生き方を探してみてください。

報われなさ過ぎて、壊れてしまう前に。

手遅れになってしまう前に。