蒼穹の叡智ーとある大学生の備忘録ー

旧帝落ち地方公立大学2年生。ある現象の背後に存在するものを見抜いて、言語化するブログ。

底辺から社会階層を這い上がり、人生を逆転しようと思ったならば、あらゆる物を犠牲にしなければならないのかもしれない

学歴社会批判に関するネット記事や本などを拝見していると

「大学が階級社会のある種の再生産装置と化している」

すなわち、《競争社会において、大学がある種の画一的な学力間に基づき、国民を選別し序列化させ、格差を再生産する選抜機構となってしまっている》

といった言説を頻繁に見掛けます。

こうした主張の背後に存在するのは、

当初の能力差は僅かであったものの、
《学歴によって一方は周囲から高い期待値を受け、良質な成長機会を獲得できる可能性が高まり易い人》と、

その一方で《適切なチャンスを与えられずに単純作業に埋没していく人》との間に能力、人間関係、収入といった面でみるみるうちに差が開いていくという現実があるのではないか、という事です。
(もっとも高学歴の人の方が種々の能力や目標に対する取り組み方等で優れていることが多いという側面を考慮に入れる必要があるが)


稀に学歴や家柄が恵まれなくとも社会的成功を収める者が存在しますが、それらは

《途轍もなく運が良かった》

《実家が裕福である》

《勉強をまともにしてこなかっただけで元々のポテンシャルは高い》

といった所与条件の前提がないのだとしたら、【僅かな可能性を掴むためにあらゆるものを犠牲にして日々を送り、果てしない努力の結果、人生を切り拓いていった】パターンである確率が高いと思われます。

大多数の人は現実を変えようと行動を起こそうと試みても、最終的には易きに流され生を浪費して過ごしていく生き方を選んでいく。

一方で、悪環境に生まれた人間の中には、苦しみに耐えきれず最終的に自殺を選ぶ人間も大勢います。
這い上がろうとする人達は途轍もない痛みと恐怖を伴いながら、様々な重圧に耐え、想像を絶する精神的負荷と闘いながら上を目指していく。

世界は残酷で理不尽なものだと突き付けられ、それでも苦しくて苦しくて助けてほしくて救われたくて、心の底では救われたいと思いながらも、弱者は世界から見捨てられてるという心身に刻み込まれた恐怖の掟は、助かりたいという自分自身の気持ちもズタズタに切り刻み、胸を裂くような痛みに襲われる。

そんな凄まじい痛みと戦いながら、一縷の望みに全てを託し“負ければ終わる”という覚悟を決めて自分を引き止めて毎日必死に食らいついていく。


加えて、その過程では必然的に《孤独が深化する》ことになります。

“当初は同じ志を共有していた仲間が、次第に耐え切れずに徐々に離脱していく”という経験を恒常的に経験していき孤独に苛まれることになる。


ある方のTweetを引用させて頂くと、

悪い方向に進んでしまった友人、自殺してしまった人、脱落した同期、今日も大勢不条理に死んでいるのが現実だけど、だからと言って一緒に死ぬ事が答えではないと思っている。ごめんねと私は先に行くねと思ってやり続けるしかないんだろう。(‪@lableuroseepine)‬

自分を変えるとは、どん底から這い上がるとは、こうやって突き進む強さなのだと思い知らされます。

あらゆる逆境を乗り越えた先に辿り着いた社会の上層部、トップレベルや本物しかいない環境下では、常人には想像もつかない程の、文字通り“殺し合い”と形容しても差し支えない闘いが繰り広げられています。


常人の精神力では耐え切れない壮絶な痛みに耐え抜き努力し続けた者だけが辿り着ける境地というものがあるのです。

人によっては耐えられず、元の場所に留まりつづけるでしょう。

努力とは高次元の環境に辿り着く為の、環境から選ばれる為の入場券のような物なのかもしれません。

しかしながら、その結果彼らが得るものは、犠牲にしてきたものと等価値で有るかは定かではありませんし、ましてや幸福などとは対極に位置するものになってしまう事が多いのではないか。

《心を喪ってしまったら、人は人でなくなってしまう》

結局のところ、素のままで勝負して勝てる人なんて限られてるし、良いもの、凄いものを生み出せる人は裏ではそれ相応の対価は払ってると見たほうが良いでしょう。


人生は基本的にクソゲーなんです。理不尽なんです。
あまりにも運の占める割合が高すぎる。世界の彩られ方も与えられた所与条件・選択肢も結局は“運”という要素に帰結してしまう。

『自分にとって良い社会が、別の誰かにとっても良い社会であるのか』と言われたらそうではない場合だって多いんだ。

だから不幸な生い立ちの人間が主観的な幸福を得ることは、ラクダが針の穴を通ることよりも困難な事であるのかもしれない。

それでも、歯をくいしばり血眼になって必至に自らの信じた道を突き進んだ末に成功した人間に対して僕は心からの称賛の声を送りたいと思う。


痛みに耐えてよく頑張った、感動した。
(小泉純一郎)

敗北を受け入れられない人間が大成することはない

《全力を出さないうちは「可能性の中に生きる」ことができる》

この言葉はすごく実感値として分かります。

全力を尽くすということは、自分の持てる力すべてを発揮してなりふり構わず取り組むということです。

だからこそ、全力を出し切った末に敗北した場合、それは完全に自分が実力不足によって敗北したことを...自分が劣った存在であるという現実を否が応でも突き付けられることになります。

しかしながら、全力を出さなければその人は“今回は本来の自分の力じゃない、実際はもっとやれるはずだ”と自分を擁護することができる。

ちっぽけな自尊心が浅薄な希望を抱かせてくれる。

自分を守るために、時として全力を出さないことで“自分の世界内での可能性を守る”ことはできます。

《本来、俺(私)はもっとやれるはずだ》と。


ただ、これでは駄目なんです。

なぜなら、『努力でどうにかなる事』と『努力ではどうにもならない事』の線引きができないから。

結局のところ、僕がこれまでの幾多の挫折から学んだ大切なことは、努力すれば実ることと、努力しても実らないことの境界線を把握できた事でした。
自分が怠けたからできなかったのか、それとも素質がなかったからなのか。“現実”を知れたこと。


加えて、世の中には、自分の力によって解決出来る問題と出来ない問題があります。

厳しい現実、どう足掻いたってできない事は躊躇なく“見切る”覚悟が必要な場面は人生で幾度となく直面します。


僕の好きな「ニーバーの祈り」からの言葉を借りると、

“God,
give us grace to accept with serenity
the things that cannot be changed,
Courage to change the things
which should be changed,
and the Wisdom to distinguish
the one from the other.”

神よ、
変えることのできるものを変えるだけの勇気を、

変えることのできないものを静寂に受けいれるだけの冷静さを、

そして、それらの違いを識別する知恵をお与えください。


人間の苦しみの多くは、自分ではどうにもならない人智を超越した“何か”に依るものであることが多い。

未来への希望を捨て去るのでもなく、
どうにもならない現状に絶望し、
厭世的になるのでもなく、

変えようもない現実を冷静に受け入れる強さを持てるかどうかはとても大切なことだと感じる。


全力を出して自分の限界を知っている人間は強い。

彼らは決して理想論ではなく現実的な目標を最適な配分、方向性、量の努力によって置かれた環境下のチャンスを掴み、目の前の壁を乗り越えていくことが出来る。

《諦めなければ夢は叶う》

《人間やれば出来る》

なんて甘い言葉は、一見真実味を帯びているようで実情は弱者をターゲットにしたプロモーションである可能性の方が高い。

等身大の自分を正しく認識し、現実を知り、その延長線上に理想があるということを内心に留めておく事が何よりも大切な事だと思います。

要するに、
《限界を見据えなければ覆すことはできない》んです。

諦めを越えた先で頑張り続けていれば、きっと誰かが見てくれている。


P.S 世界のどこかにいる志半ばで敗れてしまった人に

《一度破れた夢は、嘗ての自分が願った通りの形で実現することは叶いません。

たとえ希望を取り戻したところで、それには必然的に大きな代償を伴うことになる。

失った夢はもう完全には戻らないかもしれないけれど、それでも嘗て自分が信じた生き方に忠実でいられますか》

一年前...

僕が現在通っている大学は受験生時代、「受験することすら想定していなかった」レベルの大学でした 。


僕の第一志望は地元の名門である名古屋大学

当時の自分にとって受験は文字どおり人生を懸けた挑戦でした。

僕の人生設計は、努力の末に旧帝大に受かり、その後の人生は“勝ち組”としてエリート街道を歩むことであり、そうした人生を自分が送ることをひたすら夢見て毎日毎日必死に受験勉強に捧げてきました。


《最後まで受かると信じてやってきた》

《他の誰よりも行きたいと強く願っていた》

《自分は名大に入るに相応しい人間だと思っていた》

《努力は報われると証明したかった》




けれどそれは叶いませんでした。


合格発表の日、掲示板を見て自分の番号が無かったのを見たとき、

『ああ、どうせ落ちるくらいなら初めから頑張らなければよかった』

と真っ先に思いました。

帰りの電車の中で、何度もなんども自分の受験番号と合格者の画面を確認しても、そこに自分の番号は存在しなかった。

ひたすら家で声をあげて泣いて、これまで自分がやってきた参考書や問題集、プリントの山を見返してはまた涙が止まらなくなって...。

応援してくれていた人、期待してくれていた人、一緒に頑張ってきた仲間、

何より
《これまで頑張ってきた自分自身に対する申し訳なさ》


この想いは今でもずっと自分の心の中にあります。

僕が今頑張っているのはこの“贖罪意識”が大部分を占めていることは否定できません。

自分の実力よりも上の大学を目指して失敗し、本意でない大学に入って“こんな大学に入るつもりなどさらさら無かった”という想いを一生引きずって生きるくらいなら、最初から「そこそこ頑張れば余裕で入れるレベル」を目指していれば心の傷は浅く済んだことでしょう。


今の大学を悪く言うつもりは決してありません。

学生は真面目で温かい方が多く、教授も熱心に指導してくださり、施設に対しても不満はありません。

何より自分を受け入れてくれる“居場所”がある。


それでも本当に気持ちが通じ合えるのは同じ境遇を味わってきた人間だけです。

志望校への想いが強ければ強いほど、落ちてしまったときの辛さや苦しみは想像を絶するものなのです。

【受験や学歴が全てではない】ことも

【10代後半時点での自分の能力が届かなかっただけなのだ】ということも

【今の大学だからこそ出会えた人、学んだこともたくさんある】

という事は頭では分かっていても、


未だに受験に失敗した時のことを思い出して、泣きそうになるし、自分のキャリアのおいて、《この経歴を一生背負って劣等感を抱きながら生きざるを得ないという事実に生涯苦しめられる》ことになる。

日本で在日朝鮮人に対するイメージが良くない理由

日本には現在、200万人以上の外国人が暮らしていると言われています。しかしながら、その中で「在日朝鮮人」に対して不当に劣悪なイメージが社会の中に根付いているように感じます。


僕は《こうした日本の一部に蔓延る在日朝鮮人への排外感情は主にマスコミの報道などのメディアを通したプロパガンダによって形成された,憶測や予断に基づく解釈》だと思っている。

差別・排斥感情の根底にあるのは身近な対象との直接的な接触経験に基づいて形成される物であるというよりはむしろ,報道機関の報じるニュースを通して伝わる拉致問題や軍事プレゼンスや核問題といった国家間の政治的関係に起因することが多いのではないでしょうか。

あくまで日本で暮らす「外国人問題」としてではなく,政治的な問題や歴史認識の相違から醸成された認識が在日朝鮮人に対する負の印象を拭い難くしている一因であるのかもしれません。

種々の情報によって煽られ仕立てられた韓国、北朝鮮の政府に対する敵対心や懐疑が、より身近な存在である在日の人たちに向けられているという側面も否定できないでしょう。

(無論、在日外国人の中でも素行が芳しくなかったり、法に触れる行為を行う者もいる。そういった人々は人種国籍に関わらず存在する為、人の「性質」に類する事例として扱われるべきであると思う)

そして何より僕が問題だと感じるのは、ひとたび偏見が形成されるとたとえ客観的に正しい情報が与えられたとしても、選択的に歪んで受け止められてしまい偏見が是正されることは極めて困難なだという事です。

インターネットを通じてしばしば目にする在日外国人に対する誹謗中傷は政治的な立場を変えるほどの影響力はないにしろ,既存の立場を助長する媒介物として作用することが多いのです。


厳密な客観性を欠いた情報を,都合よく解釈したり,誇張や捏造された事実を歴史として主張することは弱者排斥に向かう見方を生み出すのみならず,排外主義を受容する基盤が構築され,ますます問題の解決や他の外国人との共存共栄を妨げることになってしまう。

マスメディアも多くは営利集団であるため,既存の権威に迎合し,偏向報道に扇動された結果,人々が誤った認識を形成してしまうことは往々にしてありえます。可能な限り生身の実態に即した報道を試みて頂きたいものです。

解決策として妥当なのは『実際に直接的な接触体験を持つこと』だと思います。やはり実体験が当人に与える影響は大きい。

無用な軋轢を避け,同じ国で共存していくのは本当に難しいですね。

語彙力の有無が知的能力の差異を規定するのか

私たちが特定の人を“頭の良い人”と評する際に、

その人が話す内容(=言葉)

即ち【物事に対する回答や認識や判断や行動が精緻で、合理的で汎用性があるということを主として基準にし、それらを当人のとった行動や発話行為を通して感じ取ることで、その人が知的な性質を有しているか否かを判断する】のではないか僕は思っています。

これは単にその人の語彙力が豊富であれば、そこに聡明さを感じ取ることが出来るのかというとそうではないのではないでしょうか。

何故ならば、そこで使われる語が文脈に適合し、主張を裏付けるに足る役割を果たしていなければ、聞き手側は“その人の賢さを認識できない”からです。

単に難しい言葉を使用していても、そこにその言葉を用いる必然性がなければ《ただの痛いやつ》であるという印象を与えてしまう可能性を避けられません。


それでは、ボキャブラリーが豊富であるという事は実際にどういった意味を持つのでしょうか。

この問いに対して非常に明晰な解答を示した文章を発見しました。

『用語の抽象性の差異は知的能力によるのではなく、個々の社会が世界に対して抱く関心の深さや細かさはそれぞれ異なるという事に拠るのである』

要するに、
《ある領域に関して語彙や概念が豊富であるということはその領域に対して深い関心を持っているということ》を意味するわけですね。

例えば、“シンギュラリティ”という言葉は日本語で
「技術的特異点」と訳されますが、

この言葉が
《現在のテクノロジーが進歩し続けると、ある地点で人間の想像力や生物学的な限界を越えた超越的な知性が誕生するという仮説であり、

さらに知能を有したコンピューターであるAIが自分よりも優秀なAIを作り出す...ことが連鎖的に行われ、人間の代わりにテクノロジーを爆発的なペースで自己進化させ、人間の頭脳では予測不可能な未来が訪れる》

といった事柄を知っているか否かというのは、単純にテクノロジーや未来予測といった分野に造詣が深いかどうかを意味するに過ぎないのではないかということです。


そもそも一部の例外的な存在を除けば、人間の発達段階に大した差はなく、思考様式や実利的関心が異なるだけでいちいち比較して論じること自体無意味な事のように感じます。

教師や親の役割は“子どもに叶いもしない夢を見させない”事でもある

今、本当に自分に適した職業に就いている社会人や、将来の具体的なイメージや明確な目標を持っているような学生はごく僅かではないでしょうか。


現代の競争社会においては、

いくつまでに結果を出さなくてはならない、

何歳までに結婚しなくてはならない、

新卒で大企業に就職しなければならないと

《人生の目標設定を早くの段階に置きがちです》


しかしながら、これほど人間の寿命が延びた時代において、若いうちに燃え尽きてしまったり、選択を誤ってしまってはその後の人生は充実したものとは言えません。

残念ながら、若い人がその最初の就職機会で自らの適性に合致し、潜在能力を遺憾なく発揮できる仕事に出会える確率は限りなく低いです。

素晴らしい未来を手にする事があり得たはずの人が、不幸にも人生の選択を誤ってしまったが為に、不本意な道しか選べなくってしまうことは大変心苦しいことだと思います。


日本では通常の場合、『大学入試』と『就職活動』がその人の将来を大きく左右する一大イベントとなっています。

しかしながら、高校卒業の時点で既に将来自分が働くイメージを具体的に持って進学を決める事が出来るような人は殆どいません。

そうした中で現在の高等教育現場においては、キャリア教育が圧倒的に不足しているのが現状です。

加えて、義務教育と高校で学ぶような国語・数学・英語・理科・社会などの知識は、大凡社会で求められるスキルとはかけ離れたものとなっています。

僕には、公教育の現場を『聖域化』し、生徒が持つ適性を見抜き、本人の希望する道筋とをうまく調整出来るような指導を出来る人材が関与することを避けているようにも思えます。

高校教員は進路決定やその後の人生に大きく関与する現場での指導力を有している人材とはとても思えません。既存社会の在り方に関する実感的な知識・情報を有し、職能発掘に長けた人材が適切な道を示してあげる事が必要ではないでしょうか。

進路指導の現場では時として、その子の将来を真に案じるならば、
『君には向いていないから、別の選択肢も考えてみたら?』と諭してあげることも優しさであり、そうした厳しさが求められる場面も往々にしてあります。

【自分が選択した道をただ単に応援したり、うわべだけの優しい言葉をかけてくれる人ではなくて、時に自分に厳しい言葉をかけてくれる人と出会えるかどうかも進路選択において極めて重要な事だと思います】

結局、後になって自分には向かないものを選んでしまった結果、苦しい思いを強いられるのは本人なのですから。

さらに僕は、
《イメージできることは具現化できる事である》

《強い想像力は確かな現実変成力を有している》

と思っています。

しかしながら、具体的なイメージを持つ事すらままならない段階で、将来の進路を決めていかなくてはならない日本の進路選択システムはとても恐ろしくも感じます。


現実は甘くない、本当に。

あまりにも理想と現実が乖離して、その差を埋めきれずにいると苦しいんですね。人生とは、理想と現実にどう折り合いをつけて生きていくかに他なりません。

生きていくためには、時として理想を捨て現実解を選択せざる得ないないことも多々あります。それが人生というものです。

進路指導やキャリア教育の役割は、“夢”や“やりたいこと”を見つめさせるとともに、「現実」との折り合いをつけさせること、即ち
《不適切な(現実とそぐわない)自己評価をしている子供たちの自己評価を下方修正させること》でもあります。

教師や周囲の大人たちが現実社会の厳しさ、リスクマネジメントの大切さを伝えるべきであり、こうした大切な事をきちんと教えないことは無責任なことのようにも感じます。

これからの時代は、人生の過程における軌道修正を適切に行えるか否か、身の丈にあった諦念を受け入れる事ができるか否かが、個人の幸せを大きく左右すると思います。


最後に、【自分に向かない仕事を嫌々せざるを得なくなり不満を抱えた人々が今後、益々増加していけば、成功者に対する妬みや体制に対する欺瞞を動機として既存の社会秩序を崩壊させる危険分子になり得る】と付け加えておきます。

日本の未来における微かな希望は“民間の非営利組織”にあるって話

現状、日本社会全体に問題があり過ぎて「世の中クソだ😩」と感じる人々が、特に20-30代を中心に多くなってきているように感じます。


公共政策の分野に関して言うならば、世の中の問題を解決しようとするアプローチとして従来型の「中央集権的な政府主導による再分配政策」というモデルの大部分は機能しなくなってきている。

日本には、スウェーデン🇸🇪やフィンランド🇫🇮といった北欧諸国のような社会民主政党が存在せず、国家の再分配機能を強化することは困難であると言わざるを得ません。

従来の高度経済成長を前提につくり上げられた社会保障のシステム・制度では対応できる範囲が局所的であり、公的サービスが地域の生活圏域に深く根付いたものとは言えないものと化した結果、現状社会の至る所に問題が噴出してしまっている。

そうした流れと併せて財政支出削減化の圧力を受けて、地方の自治体は必要な財源を確保することができず、社会問題を解決するのに必要な人材、施設、給与等を与えるための整備は充分に行き届いているとは言い難いでしょう。


少子高齢化が進行し、生産労働力人口の減少に伴い税収は減額していく中で、予測される社会問題の様相は益々複雑化・高度化していき、行政サービスでは対応しきれないことは明白となっています。

日本🇯🇵では公共事業は専ら政府が「担い手」となって推進してきた事もあり、行政が主導となり問題解決を推し進めていく考え方も一方では根強いですが、今や
《民間が主体となって問題解決を図るといったアプローチが主流となりつつある》

この際、民は公的サービスの単なる受益者に過ぎないという意識ではなく、《個人が社会的に不遇・劣位な立ち位置に追いやられた場合、政府や官の行政権力ではなく、中間団体が人々の福祉を回復させるといった発想はは非常に重要となってきます》

既にそうした動きは古くから全国各地で見られており、NPONGO・各種ボランティア団体といった利潤追求を第一義的に掲げることなく、自発的に課題解決に向けて取り組む非営利組織によって補完されてきました。

時代の転換期においては、ほぼ同じ時期に同じ様なことを考える人が同時多発的に出現してきます(僕自身、そうした動きは今後加速度的に増えていくであろうと思っています)。

今後は、《若い世代と過去の負の遺産を清算するメンタリティを有する退役世代の中で日本の現状や将来に対して危機感を持った方々》が中核となって組織化し、日本のNPOの黎明期から最前線に立ち先駆的な活動をしてきた方々が築いたプロトタイプがビジネスモデルとして機能するようになり社会的な地位も高まってくる(と良いなあという願望😔)。

こうした草の根レベルでの動きのインセンティブとしては、『やりがいや自分の役割を見つけるためのボランティア活動の場』といった自己実現をする機会の創出や『他者を配慮するケア精神』が根底にあります。加えてそうしたケアは自己犠牲を伴うことなく、況んや義務感からではなく「各人の内なる衝動」として存するのではないでしょうか。

こうした潮流が世の中のスタンダードになっていけば、地域コミュニティを基盤とした次世代社会モデルの構築され、国家という仕組みにほとんど依存しないコミュニティ・地域も生まれてくるでしょう。

社会のセーフティネットが強固なものになっていけば、誰もが生活困窮に陥るリスクを抱える今日において多大なる貢献をしていくことは幾ら言葉を尽くしても尽くし過ぎることはありません。


あくまで理想論を語るならば、

《国家の再分配機能の強化と併せて民間の団体が組織的に機能することで、より社会のなかの広い範囲に対して十全な救済措置が施されるようになってくる》でしょう。

(ただ問題は、いくら志を高く持っていたり優秀な方々が警鐘を鳴らしても、既存の社会体制側に彼らの熱意を打ち砕く強固な障壁が日本にはあるので、燃え尽きるか、可能な限りの挑戦をしてた後に日本を去っていくという苦渋の決断をするパターンが多い点😔)


前にも書いたけど、結局僕が出来るのはこれ👇

僕にとって日本が崩壊することは十二分に想定の範囲内だ...というか最近、ますます現実味を帯びてきている。



以上、自分の参画する活動への総括や今後の展開に対して個人的に実りある考察となりました。
これらは現時点での僕個人による見解であり、
【今後さらに多くの人々によって展開・発展していかなければならない事である】と最後に付して論考を締めくくらせて頂きます。

長文になってしまいましたが、最後までお読みいただき有難うございました🙇🏻