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旧帝落ち地方公立大生のブログ

地方公立大学2年。人生の岐路に立たされた際に相談してもらえるような人間に。ある事象の背後に存在する本質を的確に捉え言語化して表現したりします。官僚or外資系コンサルor研究者への道。

語彙力の有無が知的能力の差異を規定するのか

私たちが特定の人を“頭の良い人”と評する際に、

その人が話す内容(=言葉)

即ち【物事に対する回答や認識や判断や行動が精緻で、合理的で汎用性があるということを主として基準にし、それらを当人のとった行動や発話行為を通して感じ取ることで、その人が知的な性質を有しているか否かを判断する】のではないか僕は思っています。

これは単にその人の語彙力が豊富であれば、そこに聡明さを感じ取ることが出来るのかというとそうではないのではないでしょうか。

何故ならば、そこで使われる語が文脈に適合し、主張を裏付けるに足る役割を果たしていなければ、聞き手側は“その人の賢さを認識できない”からです。

単に難しい言葉を使用していても、そこにその言葉を用いる必然性がなければ《ただの痛いやつ》であるという印象を与えてしまう可能性を避けられません。


それでは、ボキャブラリーが豊富であるという事は実際にどういった意味を持つのでしょうか。

この問いに対して非常に明晰な解答を示した文章を発見しました。

『用語の抽象性の差異は知的能力によるのではなく、個々の社会が世界に対して抱く関心の深さや細かさはそれぞれ異なるという事に拠るのである』

要するに、
《ある領域に関して語彙や概念が豊富であるということはその領域に対して深い関心を持っているということ》を意味するわけですね。

例えば、“シンギュラリティ”という言葉は日本語で
「技術的特異点」と訳されますが、

この言葉が
《現在のテクノロジーが進歩し続けると、ある地点で人間の想像力や生物学的な限界を越えた超越的な知性が誕生するという仮説であり、

さらに知能を有したコンピューターであるAIが自分よりも優秀なAIを作り出す...ことが連鎖的に行われ、人間の代わりにテクノロジーを爆発的なペースで自己進化させ、人間の頭脳では予測不可能な未来が訪れる》

といった事柄を知っているか否かというのは、単純にテクノロジーや未来予測といった分野に造詣が深いかどうかを意味するに過ぎないのではないかということです。


そもそも一部の例外的な存在を除けば、人間の発達段階に大した差はなく、思考様式や実利的関心が異なるだけでいちいち比較して論じること自体無意味な事のように感じます。

教師や親の役割は“子どもに叶いもしない夢を見させない”事でもある

今、本当に自分に適した職業に就いている社会人や、将来の具体的なイメージや明確な目標を持っているような学生はごく僅かではないでしょうか。


現代の競争社会においては、

いくつまでに結果を出さなくてはならない、

何歳までに結婚しなくてはならない、

新卒で大企業に就職しなければならないと

《人生の目標設定を早くの段階に置きがちです》


しかしながら、これほど人間の寿命が延びた時代において、若いうちに燃え尽きてしまったり、選択を誤ってしまってはその後の人生は充実したものとは言えません。

残念ながら、若い人がその最初の就職機会で自らの適性に合致し、潜在能力を遺憾なく発揮できる仕事に出会える確率は限りなく低いです。

素晴らしい未来を手にする事があり得たはずの人が、不幸にも人生の選択を誤ってしまったが為に、不本意な道しか選べなくってしまうことは大変心苦しいことだと思います。


日本では通常の場合、『大学入試』と『就職活動』がその人の将来を大きく左右する一大イベントとなっています。

しかしながら、高校卒業の時点で既に将来自分が働くイメージを具体的に持って進学を決める事が出来るような人は殆どいません。

そうした中で現在の高等教育現場においては、キャリア教育が圧倒的に不足しているのが現状です。

加えて、義務教育と高校で学ぶような国語・数学・英語・理科・社会などの知識は、大凡社会で求められるスキルとはかけ離れたものとなっています。

僕には、公教育の現場を『聖域化』し、生徒が持つ適性を見抜き、本人の希望する道筋とをうまく調整出来るような指導を出来る人材が関与することを避けているようにも思えます。

高校教員は進路決定やその後の人生に大きく関与する現場での指導力を有している人材とはとても思えません。既存社会の在り方に関する実感的な知識・情報を有し、職能発掘に長けた人材が適切な道を示してあげる事が必要ではないでしょうか。

進路指導の現場では時として、その子の将来を真に案じるならば、
『君には向いていないから、別の選択肢も考えてみたら?』と諭してあげることも優しさであり、そうした厳しさが求められる場面も往々にしてあります。

【自分が選択した道をただ単に応援したり、うわべだけの優しい言葉をかけてくれる人ではなくて、時に自分に厳しい言葉をかけてくれる人と出会えるかどうかも進路選択において極めて重要な事だと思います】

結局、後になって自分には向かないものを選んでしまった結果、苦しい思いを強いられるのは本人なのですから。

さらに僕は、
《イメージできることは具現化できる事である》

《強い想像力は確かな現実変成力を有している》

と思っています。

しかしながら、具体的なイメージを持つ事すらままならない段階で、将来の進路を決めていかなくてはならない日本の進路選択システムはとても恐ろしくも感じます。


現実は甘くない、本当に。

あまりにも理想と現実が乖離して、その差を埋めきれずにいると苦しいんですね。人生とは、理想と現実にどう折り合いをつけて生きていくかに他なりません。

生きていくためには、時として理想を捨て現実解を選択せざる得ないないことも多々あります。それが人生というものです。

進路指導やキャリア教育の役割は、“夢”や“やりたいこと”を見つめさせるとともに、「現実」との折り合いをつけさせること、即ち
《不適切な(現実とそぐわない)自己評価をしている子供たちの自己評価を下方修正させること》でもあります。

教師や周囲の大人たちが現実社会の厳しさ、リスクマネジメントの大切さを伝えるべきであり、こうした大切な事をきちんと教えないことは無責任なことのようにも感じます。

これからの時代は、人生の過程における軌道修正を適切に行えるか否か、身の丈にあった諦念を受け入れる事ができるか否かが、個人の幸せを大きく左右すると思います。


最後に、【自分に向かない仕事を嫌々せざるを得なくなり不満を抱えた人々が今後、益々増加していけば、成功者に対する妬みや体制に対する欺瞞を動機として既存の社会秩序を崩壊させる危険分子になり得る】と付け加えておきます。

日本の未来における微かな希望は“民間の非営利組織”にあるって話

現状、日本社会全体に問題があり過ぎて「世の中クソだ😩」と感じる人々が、特に20-30代を中心に多くなってきているように感じます。


公共政策の分野に関して言うならば、世の中の問題を解決しようとするアプローチとして従来型の「中央集権的な政府主導による再分配政策」というモデルの大部分は機能しなくなってきている。

日本には、スウェーデン🇸🇪やフィンランド🇫🇮といった北欧諸国のような社会民主政党が存在せず、国家の再分配機能を強化することは困難であると言わざるを得ません。

従来の高度経済成長を前提につくり上げられた社会保障のシステム・制度では対応できる範囲が局所的であり、公的サービスが地域の生活圏域に深く根付いたものとは言えないものと化した結果、現状社会の至る所に問題が噴出してしまっている。

そうした流れと併せて財政支出削減化の圧力を受けて、地方の自治体は必要な財源を確保することができず、社会問題を解決するのに必要な人材、施設、給与等を与えるための整備は充分に行き届いているとは言い難いでしょう。


少子高齢化が進行し、生産労働力人口の減少に伴い税収は減額していく中で、予測される社会問題の様相は益々複雑化・高度化していき、行政サービスでは対応しきれないことは明白となっています。

日本🇯🇵では公共事業は専ら政府が「担い手」となって推進してきた事もあり、行政が主導となり問題解決を推し進めていく考え方も一方では根強いですが、今や
《民間が主体となって問題解決を図るといったアプローチが主流となりつつある》

この際、民は公的サービスの単なる受益者に過ぎないという意識ではなく、《個人が社会的に不遇・劣位な立ち位置に追いやられた場合、政府や官の行政権力ではなく、中間団体が人々の福祉を回復させるといった発想はは非常に重要となってきます》

既にそうした動きは古くから全国各地で見られており、NPONGO・各種ボランティア団体といった利潤追求を第一義的に掲げることなく、自発的に課題解決に向けて取り組む非営利組織によって補完されてきました。

時代の転換期においては、ほぼ同じ時期に同じ様なことを考える人が同時多発的に出現してきます(僕自身、そうした動きは今後加速度的に増えていくであろうと思っています)。

今後は、《若い世代と過去の負の遺産を清算するメンタリティを有する退役世代の中で日本の現状や将来に対して危機感を持った方々》が中核となって組織化し、日本のNPOの黎明期から最前線に立ち先駆的な活動をしてきた方々が築いたプロトタイプがビジネスモデルとして機能するようになり社会的な地位も高まってくる(と良いなあという願望😔)。

こうした草の根レベルでの動きのインセンティブとしては、『やりがいや自分の役割を見つけるためのボランティア活動の場』といった自己実現をする機会の創出や『他者を配慮するケア精神』が根底にあります。加えてそうしたケアは自己犠牲を伴うことなく、況んや義務感からではなく「各人の内なる衝動」として存するのではないでしょうか。

こうした潮流が世の中のスタンダードになっていけば、地域コミュニティを基盤とした次世代社会モデルの構築され、国家という仕組みにほとんど依存しないコミュニティ・地域も生まれてくるでしょう。

社会のセーフティネットが強固なものになっていけば、誰もが生活困窮に陥るリスクを抱える今日において多大なる貢献をしていくことは幾ら言葉を尽くしても尽くし過ぎることはありません。


あくまで理想論を語るならば、

《国家の再分配機能の強化と併せて民間の団体が組織的に機能することで、より社会のなかの広い範囲に対して十全な救済措置が施されるようになってくる》でしょう。

(ただ問題は、いくら志を高く持っていたり優秀な方々が警鐘を鳴らしても、既存の社会体制側に彼らの熱意を打ち砕く強固な障壁が日本にはあるので、燃え尽きるか、可能な限りの挑戦をしてた後に日本を去っていくという苦渋の決断をするパターンが多い点😔)


前にも書いたけど、結局僕が出来るのはこれ👇

僕にとって日本が崩壊することは十二分に想定の範囲内だ...というか最近、ますます現実味を帯びてきている。



以上、自分の参画する活動への総括や今後の展開に対して個人的に実りある考察となりました。
これらは現時点での僕個人による見解であり、
【今後さらに多くの人々によって展開・発展していかなければならない事である】と最後に付して論考を締めくくらせて頂きます。

長文になってしまいましたが、最後までお読みいただき有難うございました🙇🏻

高学歴・高収入なのに残念な人とは

たとえ年収や学歴が高くとも、人として尊敬できないなと思うような方々をちらほらと散見します。

こういった背景にあるのは、《日本が推し進めてきた教育・社会政策における課題が露呈してしまった帰結だ》とみている。

エリートの本来、《単に社会構造上における上位者ではなく、社会全体に対して貢献や義務を負った存在であるべきだ》と僕は思っている。


例えば、ヨーロッパの伝統ある国々では、高貴な身分であるからには「公共的な使命」が自分に託されているという「ノーブレス・オブリージュ」の観念が根付いている。

社会的に上位に位置する人が「義務」として、弱者に対して施すべきだという意識

早期選抜というシステムによって10-14歳時の段階で、「国家を担っていくエリート層」と「社会を構成する人々」が既に分かれてながらも、お互いが尊重し合い、自身に与えられた役割を自覚し、それぞれが使命を全うしていく...といった感じですね。

こういった制度が日本の教育システムよりも優れているかどうかは一概には言えませんが、少なくとも伝統的に存在する一つの方法であることは間違いないです。

また、日本においても明治維新の頃、“欧米諸国に追い付く”という実用本位の目的で作られた旧帝大旧制高校では《自分たちに日本の発展や未来が託されているという歴史的使命を委ねられているといった自覚を持っていた層》が国家の主要な政策に携わっていたようです。

彼らは自分が“選ばれた人間”であるという自覚や選抜意識を持ち、自国の発展の為に進んで重荷を引き受けようとする気概を持った真のエリートであったと言えるでしょう。

こうした風土は高等教育が極一部の限られた者にしか与えられない状況下で生じることが多く、“大学全入時代”と呼ばれるように教育が大衆化した現在の日本では涵養されにくいと思います。


しかしながら、現在の日本の高等教育で優秀な成績を収めてきた層の多くは管理教育や受験競争の弊害を受けてしまっていることは周知の事実です。

とりわけ、
《学習という本来、自己を成長させる為の営みが、一方で学力面では成績を伸ばしながらも、他方で情緒的、人格的な陶冶とは結びつかないケースが多くなっている》

教育内容は競争のための道具に貶められ、本質的に内面化されることはなくなっている。

拝金主義を信奉し、目先の利益を得ることに奔放する資本家や、地位や名誉のためにステータスを追い求めて高級職を目指す(人の生命を救うのではなく職業威信のために医師を志す)といった典型的なエリートはその代表例でしょう。

学歴、試験の点数といった数値的に示される外形的な格付け基準に基づいた評価を過大視しすぎては見誤ってしまう側面も往々にしてあります。

人は愚かなもので、特定の地位にあるというだけで自分に力があると思ってしまう。
本来ならば「残した実績や本人の人格」といったものに対して評価を受けるべきです。当人が何も成し遂げていないうちから偶像崇拝して英雄に祭り上げてはいけません。

その結果、肥大した自己愛に見合う評価が得られないことで、膨れ上がったプライドに食い潰されたり、社会的弱者に対して侮ったり搾取の対象とみなしてしまうような意識が生まれてしまうことに陥りかねません。

エリートであるならば尚更、自分の私的利害の為ではなく、社会を是正し、弱い立場に置かれている人たちを助ける気概をもっていてしかるべきだと思います。

社会成層の中で上位者として君臨するエリートは、自身の能力を現在の世界のシステムを理解しそれを巧みに活用することで自己利益を増大させることに注力するのではなく、《公共の利益のために行動し社会をより良い方向へ導くことに利用して欲しい》というのが僕の願いです。

極端にリベラル的な発想になってしまいましたが、《社会全体を見据えた上で『最適化』を図るためにどうすべきかを個々人が探っていくこと》が何よりも大切なのではないでしょうか。

そうしていかなければ、たとえ経済は発展しても社会が回らなくなってしまう。そういう非常にリスキーな世の中を僕らは今生きているのです。

物質的な豊かさを追い求める時代の終焉

僕自身、おそらく今後の社会では、

【人々の働く動機が単純な拝金主義(金銭を至上の価値あるものとして尊重する考え方)ではなく“人との繋がり”、“社会貢献”、“やりがい”といった精神的な満足感を重視したものへとモチベーション構造が漸次的に変動していく】

のではないかと見ています。


戦後日本の社会政策の分野においては、大河内一男(経済学者:1905-1984)のような分配政策論を否定し、
「生産力主義」を展開するイデオロギーが支配的となった政策が推し進められてきました。

そういった時代に展開されてきた社会政策論は、
《生産力の発展・増大に伴い自ずと社会全体の福祉も増進する》といった考え方をベースとしていました。

これらの政策は戦後の時代、慢性的な物資の不足、貧困といった困難な状況を乗り越え多くの国民が“豊かな生活”を享受出来るようになるために一定の効果を収めてきたと評価されています。


しかしながら、バブルが崩壊し深刻なデフレ不況に陥り経済が低迷していく現代においては、物質的な豊かさだけでは真の満足感は得られないことは多くの人々が体感として実感しているところだと思います。

ある一定水準を越えると、年収があがってもさほど幸福度は変わらないということは多くの実証的な研究結果によって示されています。

◯ダニエル・カーネマンらは45万件のデータをもとに調査し分析した結果、感情的幸福は年収7万5000ドルまでは収入に比例して増大するのに対し、7万5000ドルを超えると比例しなくなる、という研究結果を得ています。

一定以上の経済的な豊かさやモノの豊かさは、必ずしも幸せをもたらさないのです。
(前野 隆司、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授)


小中学生の頃、めちゃめちゃ好きだったポケスペルビサファ編の名シーンの👇この言葉を身にしみて感じます。

「本当の美しさは心の美しさだ!! 誰かを愛し、想いやる心そのものなんだ!! 
強大な力に全てをのみこまれる前に、そんな気持ちを思い出してくれ!!」(22巻)

利潤追求・経済優先の論理を推し進めてきた結果、破壊してきたもの、失ってきたもの、駆逐してきたものは何なのかを今一度問い直していく必要があるかもしれません。



さらに興味深いデータがありました。

学生の立場からすると夢も希望もない(´;ω;`)

なぜ男女間や就業形態に応じて、主観的な幸福度にここまで開きが有るのかに関してはいずれ考察してみます。

一般に意識高い系と呼ばれる大学生は実際にどういった人たちなのか

世の中の大学生の中には、俗にいう“意識の高い活動をしている人たち”が一定数存在します。

僕自身はそういった方々をみると、

「すごい、頑張ってるな」
「将来の目標に向けて、いろいろ考えていて偉いなぁ」

と素直に感嘆するのですが、一部の方々の中には身の程知らずにも、

「アイツ、意識高い系かよwwww」

といった無礼な発言をする残念な人がいるので、そういった偏見を少しでも減らしていきたいと思いこの記事を書きます。


【そもそも意識高い人とは】

彼らの多くは自分に対して掲げる目標や理想とする姿のハードルが高かったり、早期の段階から自分の将来のことを真剣に考えて行動に移してるような方が多いといった印象を受けました(もちろん個としての能力も秀でていることが多い)。

彼らは通常、普通の大学生が通過する成長カーブよりも高い成長曲線を描いていきます。

そして周りよりも精神的な面で成熟していたりポテンシャルの高さを持て余しているが故に、バイト、サークル、講義、趣味、飲み会🍺といった世間の王道的な流れを“そこそこ”楽しみながらも、漠然とした物足りなさを感じ満足できなくなってしまう。

そんな中、周囲の同世代の多くは、サークルやら彼女やらバイトやら単位やらといった話ばかりをする中で「あれ、大学ってなんか思ってたのと違う...」と感じ始める人が少しずつ出てきます。

(まあ裏では個人差はあれどいろいろ考えている人もいると思います。ただ表立ってそういう話をしたりできる空気はなかなか無い)


日本の大学は、主に《授業に出席し必要な単位を取得すれば卒業できるという教育システム》を採用しています。

勿論のことですが、大学の講義の中でも実践的な演習やディスカッション、プレゼンテーション、グループワークや実習などを通して現実社会で必要とされるより実践的なスキルを習得できる場も数多く設けられています。

しかしながら、大学生は一般的に大学生として扱われる中で、高い志や問題意識を持った彼らは、

「このままで良いのだろうか...」

「もっと自分にできることは無いだろうか」

そういった思いを抱きつつ漫然と日々を過ごしていく中でSNSやインターネット、学内で“何かすごい活動をしている人たち”を見て感化され、世界の広さを痛感し「このままじゃヤバい」と気付き始めます。

いかに自分が狭い世界の中で生きてきたかを痛切に感じ、大学生というモラトリアム期間をより意義や実りのある活動に費やそうと考え、アクションを起こし様々な活動に手を出し始めます。

・起業
・国内外の各種ボランティア
NPO
・株の取引
・被災地や発展途上国での支援
・学生団体の立ち上げ
・セミナーの受講
・世界各地の放浪
・各種イベントへの参加
・社会人との繋がりを大切にする
・事業(ビジネスなど)を展開する
・ブログを始める(僕ですね笑)

こうして早期の段階から、社会との接点を持ち各々の目標に励んでいく彼らは、途中多くの壁に阻まれながらも懸命にチャレンジしていく中で、他の大学生を圧倒する成長を見せ始めることが多いです。

単に漠然と学生生活を過ごしていく人と何かを変えていこうと行動を起こしていく人たちとの間に存在する差はなかなか後になって埋めるのは難しいと思います。

《僕らは、現時点で自分が有している可能性で今後の人生を勝負していかなければならないのだから》

“情報”格差社会において大切なのは知識量ではなくクオリティーを吟味する能力だと思う

なかなかセンセーショナルな題名ですね(笑)

普段の僕はあんまりこういった話を基本的にはしないのですが、個人的にかなり重要なことだと思っています。

個々人の意識的な問題なので、公のなかでまず話の話題に挙げることはありませんが。

それは主に、“自分が所属する組織や集団が無意識のうちに排除してしまったものは、僕らの視界から消えてしまい、自分たちの思索の主題にあがることは極めて稀だから”という理由からです。

その為、以下の内容は自戒を込めている(自分自身も同じ様に陥りかねないため、この教訓を自分にも言い聞かせる必要があると感じている)側面も大きいです。


普段よく考えるのですが、所詮僕らはこれまで生きてきた中で触れてきた情報からその時々に最適解と思われるものをその都度選択しているに過ぎません。

そしてそれらを選ぶ選択意欲は、時代背景といった歴史的文脈や権力を握る者による情報操作によって形成され、一見「自明の理」と思われるものでも、人間の関わるあらゆる行為には『人為』が介在する以上、すべての情報の発信者には作為的あるいは無作為的なものであれ、そこには必ず一定の『意図』が存在します。

しかしながら、内田樹さんも仰るように、

《私たちは客観的事実よりも主観的願望を優先させる
「世界はこのようなものであって欲しい」という欲望は「世界はこのようなものである」という認知をつねに圧倒する》

誰かの意図によって形成された主観的なものに過ぎないものを、僕自身も含めて多くの人々が、

《自分にとって都合よく解釈できて理解しやすい事実だけを容認してしまう》

しかしながら、既に選ばれた情報を何かがおかしいと疑問を抱かず、細部を見て知ろうともせず、何ひとつ問題意識も持たずに生きていくことは恐ろしい事だと思います。


なぜ僕がこのような事を主張するのかというとインターネットが普及し誰もが容易にアクセス可能となっている現在、良質な情報を選択的に得るために必要なのは書かれている情報の『質』、言い換えると“クオリティー”を判断する能力だと個人的に思っているからです。


具体的なもので例えると、

情報リテラシーが低い人の場合、ある情報を得た際に、

Level.1
Level.2
Level.3

といった様に3段階でしか評価できない。

一方でリテラシー能力が高い人は、

Level.1 Level.2 ••• Level.9 Level.10

といった形で、流れてきた情報の質を

・ソースの信頼性
・文脈
・関連性
・情報量
・どの層をターゲットにしているか
・発信する意図
・物事の因果関係
・言語表現

といった多角的な観点から客観的に評価できる知性を有していると思っています。

1つの出来事の中にたくさんの解釈が潜んでいる中で、どれが正しくてどれが間違っているかを決めつける事は原理的に不可能なことです。

だからこそ物事の一側面では測り得ないものを、自身の価値観や周囲の人の判断だけで決めつけてしまうことは時に恐ろしい結果に繋がる可能性も十分にあり得ると思います。

情報は持っている量だけではなく、その『質』も考慮する視点を忘れてはいけないという事ですね。

ただ、どんな情報(虚偽や歪曲、妄想、デマも含めて)であれ、世の中の仕組みや人の価値判断について程度の差はあれど有益な示唆を含んでいることは否定できない事実だと思います。

《精度の低い情報や、虚偽の情報からでさえ、私たちは「精度の低い情報を発信せざるを得ない必然性」や「虚偽の情報を宣布することで達成しようとしている功利的目標」を確定することができる》
(引用:内田樹情報リテラシーについて)

結局のところ、今の自分に残されている手段は現代社会を多様な視点から見て解釈し、それらを徹底的に理解した上で現実として冷静に受け入れて、その上で何を取るかを自分で決めていくしかない。

今はマジョリティに追従していけば何とかなるという時代ではないのだから。