蒼穹の叡智ーとある大学生の備忘録ー

旧帝落ち地方公立大学2年生。ある現象の背後に存在するものを見抜いて、言語化するブログ。

国際政治は外交カードの切り方の問題として捉えると分かりやすい

国際政治の問題は捉える視点を見誤ると全く理解不明で訳わからなくなってしまう為、ひとつの視座として、

「カードをどう切るか」に着目すると良いと思います。

そのカードというのは主に、

「外交上利用できる切り札」や
「交渉のときの有利な条件」であると考えて頂ければ良いです。

-そもそも外交とは-

  • 「外交の本旨は、国家と国民の利益のために貢献することにある。変化する現実の中で国家と国民の利益に最も応えると信じる施策を立案し、その実現のためにたゆまぬ努力を続けていくことが、国民の前に、職業としての外交官の意義を示すこととなる。私は、そう確信する」東郷和彦(駐蘭大使)


その中でも『外交交渉』がとても重要な概念で、

外交において実際に首相や外交官などの国家の代表が相手国の代表と対面して実施し、何らかの合意を取り付けるための交渉(Wikipediaより)


まとめると、《外交交渉に使えるカードの総和が、一国家の外交力そのものに他ならない》という見解が個人的にしっくりきます。


よく中国🇨🇳や韓国🇰🇷が対日カードとして使ってきているのは、「従軍慰安婦問題」の謝罪要求や「竹島問題」「尖閣諸島」などの領土問題、「靖国参拝」を絡めてくることが多いですね。

これらの背後には日本との歴史問題や戦争犯罪を利用し、外交利益を得ようとする意図が明確に表れています。

たまに、「そんな事言わないでお互い仲良く協調していけばいいじゃないか!」という理想論的・感情的な意見も見受けられますが、

両国はそれぞれ固有の思想や政治体制、領土をもっており、思惑通りに自国の利害を優先させていく方向に事を進めていかなければ他国の都合の良いように利用されてしまいます。


すなわち、《外交では要求事項やどこまで譲歩するかに関して、各国の動きを踏まえながら自国の国益を最大限に実現していくことが求められている》と。


それで具体的にどんなカードがあるかというと、僕が思いつく限りでは、

関税引き上げ要求
輸出の自主規制
内需拡大の要求
経済支援
経済封鎖
入国管理の強化・緩和
緊縮財政

民間団体等の国際交流
人材、技術交流
自国内での反◯教育
世論誘導
記念式典
条約締結
スポーツや文化交流
平和維持活動
大規模な災害に対する援助
人道支援

それと国際世論に訴えるというのもありますが、実効性が低いかなと思います(やってもあんまり効果が薄い)


とりわけ《敵対勢力に対する包囲網を構築する軍事プレゼンス》は外交交渉に極めて大きく影響を及ぼします。

やはり外交上の話で安全保障や軍事関連の内容は避けては通れませんね。


日本はとくに安全保障上の分野で国際社会のキープレイヤーとして存在感を発揮していかなければならない立場に置かれているという認識は持っておいた方が良いと思います(殆どの国から日本は積極的な世界への貢献・関与を求められているはず)。

教養欲しいよねって話

そもそもなぜ教養が求められるのでしょうか。

A.教養ないとバカっぽくみえるから


-完-



というのは冗談です(笑)

ちゃんと詳しく解説していきます。


よく有識者の方々が書かれた見解や社説をみていると、近年日本人の教養レベルが衰退し危機的な状況にあるという言説をしばしば拝見します。

こうした背景にある事柄で個人的に考えられるなと思うのは、

・消費社会における娯楽の普及や多様化
・メディアのもたらす外的情報が氾濫している
・専門的な知識を求める実学志向
・日々の生活の多忙さに追われ、修養や心の平静を保つ時間が持てない
・階層の固定化により、自分の属する社会集団によって個人の触れる文化資本の傾向が均一化する
・高等教育に市場原理を導入した結果、かつては限られた『大学』が乱立し大学教育の相対的な価値が低下したこと
労働市場の先端では教養ではなく先端的な“技術”を有する「専門家」が求められるようになった
SNS(Twitter、LINE等)ではメールや手紙よりも短文中心のメッセージが多いため深く掘り下げた内容になりづらい
・伝統的な文化への畏敬の念が希薄している事
・教養・人文主義的エリート層の衰退
・管理教育による生徒の学ぶ意欲の低下

などなどですね。

  • 根本的には、《きちんと勉強したことに対して相応の見返りや将来を財界や教育行政が提示できない既存の体制側》に問題があるのかなと思っています。

教養があって、優秀な人がそれに見合う対価が得られない(どこの共産主義社会でしょうか)


「それじゃ、教養意味なくね?」となってしまうので、なんとか教養の意義を伝えていきたいと思います。


僕自身は《人間は、過去の歩み方に沿って生きてしまうものだから、未知の問題に遭遇した際にも、過去の類似した例を参照して対応するものだ》と思っています。

《歴史は繰り返される、けれどそれが以前と全く同一の形態をとるとは限らない》


その為、ある程度、知識や経験から裏打ちされたものがあれば現実の場面でも対応力があるのかなと思ったりしています(もっともそれらを発揮できる組織風土や環境が整っているという条件を満たしているという前提がありますが)


加えて“真に教養がある人”というのは一般的な『歴史や文化といった社会的に認知されている知(常識を含む)に精通している人』といった意味合いだけではなく、

【自己と他者に対する多角的認識を可能とする幅広い知識や社会性、倫理観】

【単なる雑多な知識の集積ではなく、断片的な知を紡いで経験にまで昇華させ「物語り」にする能力】

【学術的な知を現実の生活場面に援用できる力】

なんかも持ち合わせていて、精神的にも柔軟な感性を持っているのかなって思います。

中・長期的な視点に立って始めてその意義が分かるものとも言えますね。


何より、会話しててためになるし学べる事が多かったり、多くの知識や経験に基付いた見識があるので信頼できる(ことばに説得力がある)といった印象を受けます。

教養がある人でないと理解できないと思われるような事柄が世の中には多過ぎるので、興味を持てる範囲・理解できる範囲が広がっていくというメリットも大きいですね。


教養は短期的な視点ではなく大局的な観点から見渡せば身に付けておいて損はないと思います。

今の世界のカオスな状況はグローバル化のもたらした負の側面の露呈だと思う

昨今の世界情勢をみてていつも混沌としているなと感じます。

かつてグローバル化の中心として覇権を握る資本主義国家であり、IT革命が最も進展し、巨大な軍事力を有し栄華を誇っていたアメリカ🇺🇸が反グローバリズムを叫ぶトランプ氏の登場により「意気揚々と撤退していく」プロセスや、移民・難民排斥、欧州各国の排他主義を唱える右派政党の支持率の伸びなんかを見ているとグローバル化も終焉を迎えつつあるのかなと思っています。

この背景にあるのは時代が《過度に行き過ぎたグローバル化の是正》に向かっている事が挙げられると思います。


そもそも、グローバル化とは一般的に【様々な人種・民族・国家の人々が国境や人種の違いを超えて世界が画一化していく現象】と見なされていますがその実態は、


《英語が公用語で、キリスト教(主にプロテスタンティズム)を信仰し、お金=大事という価値観》をアメリカン・グローバリズムとして共有されていますが、

規模は大きくとも、《あくまで人類の歴史的にみればとても短い期間のアメリカのローカルな思想に過ぎない》ものであると。

グローバル化が進んでいけば、必然的に国境間の壁は薄くなっていくが、それによって階級や階層の格差はなくならないどころか、いっそう拡大していってしまう》

規制緩和が進み貿易や金融が自由化し、情報化が進めば進むほど、スキル、情報、資本が集積する世界的企業は、世界中から富を素早く効果的に集めることが可能となり『富の一極集中化』を招く事になる》

これまではそうした思想によって世界を覆い尽くそうとする勢力が猛威をふるい世界を席巻していたけれども、それがもたらす負の側面が全世界的に露呈してしまった帰結として今のテロや貧困、移民問題が蔓延している現状があるのかなと思っています。


要するに、行き過ぎたグローバル化によって国家の市場原理から弾かれて居場所をなくした人々が今世界に溢れかえっていて(先進国、途上国を問わず)、移民や難民になっているのが現状です。

テロを仕掛けている人たちの多くはそういった世界に対して異議を唱えるためにテロを起こしているのだ(イスラムの独自の共同体原理に基づく不正や抑圧に対する闘いも含めて)という認識を持ってみると世界の流れがよく掴めてくるかなと思います。


こういった「現実」を認識せず、日本が相変わらず周回遅れのグローバリズム路線を突き進むのであれば、我が国の将来は暗澹としたものにならざるを得ません。(三橋貴明氏)


こういう専門的な話になると、分かりやすく平易な言葉を選べないので難しいですね(-∀-`;)

報われない努力はしない方が良い

 前述した記事の続きの内容です

http://supernovana01ntural.hatenablog.com/entry/2017/01/31/134710

核心部分だけ抽出しておきました👇

僕自身が考える努力の定義は

【外的な規範・評価軸と自分の掲げる目標とする姿を重ね合わせ、現状を変えるためにそれに向かって自己犠牲を伴いながらも、対価を得るために自らの有する資源を投じる行動】

一般的な努力のイメージに
《競争などの外的要因+自己犠牲を伴う+見返りを求める》が加わったものと考えてください。

たとえば、
部活でレギュラーを獲得する
大学受験で志望校に合格する
バンドマン🎸となって売れる
甲子園に出場したい
箱根駅伝に出たい
一流企業の内定を勝ち取る
といった類のものです。

あくまで「自己完結型の目標」
身体を鍛える、カラオケを上達させる、絵が描けるようになる、というのは僕の定義内での努力には入らないということを予めご了承ください。


【努力のデメリット】

⑴払った対価の割に得られるものが少ない

努力には、ハガレンでいうところの『等価交換の法則』が成立しないんです。

努力によって獲得できるものは自分が費やした労力、時間、資源に比して限られています。

努力してきた人は“自分はこれだけやってきたんだ”という自信を持てる一方で、これだけやってきたんだから望み通りの結果を得られるはずだと『見返りを求めてしまう』のですね。

「努力は裏切らないって言葉は不正確だ。正しい場所で、正しい方向で、十分な量なされた努力は裏切らない」(林修)

この言葉に示されているように、成否は適切な量・質・方向性・方法論を要する努力、才能、環境、適正、運といった要素が複合的に絡み合った結果成立します。

⑵努力が報われなかった時のことを想定しづらい

つまり、リスクマネジメントが困難な点です。

近代日本🇯🇵は江戸時代の身分制社会から解放され、家柄や身分ではなく努力によって高い地位に辿り着くことができるという希望に満ちていたそうです。

「立身出世主義は人々に夢や希望をあたえる。しかし、叶えられなければ、社会への反逆や抵抗、士気の低下などによって一転して危険なエネルギーにも転化する代物である」(立身出世主義―近代日本のロマンと欲望より)


しかしながら、〈努力すれば何とかなるはずだ〉という希望は多くの場合、裏切られる可能性の方が高いです。

そしてその希望が裏切られたときの絶望はその希望の大きさに比例します。

報われなかったときの悲惨な結末も考慮に入れるべきです。

せっかく努力し続けられる精神力や体力を有しているのであれば、 命を擦り減らしてしまう前にその才能を他の分野に活かすべきだと思います。


⑶そんなに頑張れる人って少数派

多少の尊敬はされど、大抵の場合かなりの確率で浮くか、距離を置かれます。

あなたは私たちとは違う人なんですね、
と心の中で一線を引かれてしまう事もあります。

さらには努力しない他者に対して攻撃性を帯びた意識が生まれてしまうことも往々にしてあり得ます。
(「俺がこんなに必死になってるのにあいつらヘラヘラしやがって😡」と)

⑷上には上がいる

世の中で輝かしい実績を残した人の陰には、数多くの《実績を残せなかった》人が存在し、その上に成り立っています。

そもそも努力できる人というのはベースとしてある程度は才能があったり優秀な人である場合が多い。
そしてそれ故に“自分ならやれる”と勘違いしてしまう。

僕自身も中途半端に才能があったがために、
「お前ならやれるよ」と周囲から期待され、頑張っても結局だめで潰れるという事を何度か繰り返してきました(学習能力がない)

本当に高次元なレベルでの競争は、選ばれた人間どうしの過酷な生存競争が行われています。
自分の投じられる資源の限りを尽くしても、勝てる見込みがない場合、最後は命を削って闘うという手段を取るしか術がなくなります。

その結果、無残な結果に終わった場合、

“こんな思いをするくらいなら初めから頑張らなければよかった”と、毎晩泣き明かす地獄のような苦しい日々が続きます。


けれども人には誰しも人生の中で必死になって努力しなければならない時期が何度か訪れるときが必ず来る。

「そんな時はどうすれば良いのか」と尋ねられると、

基本的には
《自分に才能がある、適性があると思える分野or幼年期に他者から凄く褒められたり認められた分野orひとつのことを何年も続けられる分野で頑張るべき》だと思います。

僕は〈努力し続けられる〉こともひとつの才能だと思っているので、成功可能性をしっかりと吟味し、ダメだったときに採れる選択肢を残しておいた上であれば、ありだと思っている。

ただ可能ならば、

『自分が勝てる場所で勝負する。ここだと決めたからには最大限の努力をする。つまり、大して努力しなくても勝てる場所で、誰よりも努力をする。それができれば、もう負けることはないはずです。』(林修)

頑張っていればいつか報われるはずだと信じてしまうのは非常に怖い考え方だと思います。


ただ様々な挫折経験をすれば、自分の能力を正確に見積もることが出来るようになるので、等身大の自分を見れるという側面もあるので一概には言えないですが。

《失敗に終わったけど、挑戦して分かったのは自分の“限界”だった》

「事前分配政策」-市民の政策関与に関して-

かつての僕は、自分が文科省のキャリア官僚になって日本の教育行政を変革するんだ!みたいな熱過ぎる思いと大いなる野望を抱いていたわけですが、


前述したような、努力のデメリットの大きさと、受験失敗、官僚組織特有の堅固な権力構造、既存の政治に対する失望、教育政策の暫定性、過酷な労働環境、知識偏重型試験の不適正、大学の実績からしてほぼ前例ない等々のさまざまな要因が合わさり、


今は“教育関連の分野で第一線で活躍したいとか途方も無く優秀な人達と凄いものを生み出したい”みたいなすごく抽象的な感じになってしまいました。


それでも政府や省庁の政策に関する関心は持ち続けているので、新聞📰やネットの記事を読んだり、パブリックコメント制度を利用して間接的に政策意思決定に関与したり(主に政策提言など)はしています。

《国全体が動くのは物凄く時間が掛かる
だからこそ自分にできる事は何か、少しでも一人一人が考えていく必要があると感じます》

https://www.e-gov.go.jp/help/public_comment/about_pb.html

公的な機関が規則あるいは命令などの類のものを制定しようとするときに広く公に、意見・情報・改善案などを求める手続をいう。公的な機関が規則などを定める前に、その影響が及ぶ対象者などの意見を事前に聴取し、その結果を反映させることによって、よりよい行政を目指すものである。


なんというか、政策変更の意図を判断しやすい大統領制の下にある国々とは違って日本の場合、政策の意図が見えづらいんですね。(もっとも庶民には分からないように恣意的にそうしている場合もある)


選挙制度自体にも問題点はあると思いますが、そもそも
『日本が市民社会として成熟しきれていない』点に問題の所在があると感じています。


そして僕が、最近わりと本気で良いなと思っているのがノーベル経済学賞を受賞したヘックマン教授も提唱する『事前分配政策』

〈恵まれない環境に生まれた子供は、技術を持たない人間に成長して、生涯賃金が低く、病気や十代の妊娠や犯罪など個人的・社会的なさまざまな問題に直面するリスクが非常に高い。機会均等を声高に訴えながら、私たちは生まれが運命を決める社会に生きているのだ。(中略)
生まれあわせた環境が人生にもたらす強力な影響は、恵まれない家庭に生まれた者にとって悪である。そして、アメリカ社会全体にとっても悪である。数多くの市民が社会に貢献する可能性を失わせているのだ〉

〈事前分配―恵まれない子供の幼少期の生活を改善すること―は社会的包容力を育成すると同時に、経済効率や労働力の生産性を高めるうえで、単純な再配分よりもはるかに効果的である。事前分配政策は公平であり、経済的に効率がいい〉『週刊現代』2017年1月28日号より


要するに、年少児のうちから格差は既に厳然と存在しているから、小中高とそれらの拡大が促進される前の段階で機会を平等に与えようと。

世代間の能力全体の底上げに繋がり、経済的にも優位にはたらくし良いことばかりです。


先進国全体で経済成長に期待が持てず少子化の進展が危惧されている中で、次世代を担う人材育成は喫緊の課題といえるのではないでしょうか。

名言の真の意味は受け手側のリテラシーがなければ理解されない

僕は名言が好きです。

よく漫画やアニメ、経営者、スポーツ選手、哲学者たちの名言をインターネットで調べたり、それらをまとめて掲載している本を読んで、スクショしたりノート📔に書き留めたりしています。

一般的に名言という言葉から連想されるのは〈過去の偉人たちが残した人生において役にたつ言葉〉というイメージを思い浮かべる方が多いのでしょうか。


ちなみに大辞林で名言という言葉をひくと

  • [名言]物事の本質や人生の真実をうまく言い当てたことば

上記であげた定義に加えて名言と思われる言葉の要素として

『含蓄に富む内容が端的に示されている(シンプルで含みのあるメッセージ)』

『言葉の中に発話者の信念や生き方が反映されている』

が挙げられると思います。



例えば、

『人々が思考しないことは、政府にとっては幸いだ。』

『資本主義が資本主義である限りにおいて、過剰資本は、その国の一般大衆の生活向上に振り向けられることはない。
というのも、そのようなことをすれば、資本家の利益が減少するからである。』


うん、まあ選んだ文章のセンスに関しては僕の感性なので放っておいて下さい(;´・ω・)

まあでもこんな言葉を残す人たちなんて大体想像がついてしまうわけで。

この人と


この人です


ナチスの党首アドルフ・ヒトラーソ連の設立者レーニンですね。


このたった1、2行の文章でいま起きている世界の現象の大部分を説明できてしまうという点で非常に示唆的だと思ったのでこの文を選びました。


この言葉の中にはかつて独裁者として君臨し、多くの大衆を欺き支配したという特異な人生経験を積んできたからこそこうした言葉を残せるわけで、普通の人はこんな言葉は絶対に言えないはずです。

(もっとも「全ての歴史は勝者の歴史である」という言葉の通り、草の根の大衆が歴史のメインストリームにくることはないため歴史の陰に埋もれてしまっているという見解も否定できませんが)


このように名言には名言を言った人の人生そのものが表れている。つまり、その人のありとあらゆる経験や思考の蓄積を詰め込んで圧縮した形でそれらを端的に言い表わしたものが「名言」であると思います。

そのため、名言とは言った人の背景や人柄(=コンテクスト)を文脈として解釈しなければ理解出来ないものであると言えるのではないでしょうか。

僕自身も常々思っていることですが、

《どれほど優れた作品も受け手側にそれに見合うリテラシーがなければ作品の持つ本来の魅力を享受できない》

だからすぐに「つまんねー」とか言う前に、まず自分の感受性を豊かにする努力をしないと真の意味で、作品を愉しむ事はできないと思います(芸術作品とか名作文学とかはとくにそうですね)。


 

過去は変えられるって話

「過去」は「未来」によって、いくらでも意味をつけられる。

「過去」の評価は、これから未来をつくる 「今の自分」が決めればいい。

過ぎてみれば、すべてに意味があったように未来を変えていけばいいのだ。(伊藤真伊藤塾塾長)



司法試験や公務員試験といった難関国家資格の取得を目指す予備校の塾長のこの言葉はすごく的を得ていると思います。

https://www.itojuku.co.jp/shiken/shihou/jitsumu/bn/index.html

過去の事実そのものを変える事はできません。
どうあがいたって不可能なことです。

しかしながら、過去をどう決めるかは“今の自分”です。

《あのころの自分がいたからこそ、あのころの悔しさと、努力があったからこそ、今の自分があるんだ。》

そういう形であくまで事実としてではなく、

解釈として、

肯定的に捉えることができるようにはなります。


要は、「事実や状況そのもの」ではなく「自分に降りかかった出来事をを本人がどのように認識するか」という解釈の問題なんですね。

実存主義の考え方に近いですね。

自分の現実的な在り方や、ある行動が正しかったか否かは後世において事後的に判定されると。

振り返ったあとに後悔のない人生を歩んでいきたいものです。

考え方ひとつで見える景色が変わる例として精神医学でも重要視されている非常に有用な考え方ですね。