蒼穹の叡智ーとある大学生の備忘録ー

旧帝落ち地方公立大学3年生。ある現象の背後に存在するものを見抜いて、言語化するブログ。

現代社会において知能の高さが評価される背景と能力評価の基準に多様性が求められる理由

現代の私たちが生きる社会において、「知能」と呼ばれるものが優れている人、即ち頭の良い人は高く評価される。

 

これは言い換えれば、現代の社会において優れているとみなされている能力が「知能」だということを意味する。

 

なぜ知能の高さが現代社会においてこれほどまで評価されているのかについては歴史的な発展に伴い、社会が求める能力に知能が大きく関わっていることが影響している。

人類は18世紀に産業革命と近代化を経験し、それ以後の社会では科学技術や産業、政治・経済・法律といった複雑な社会制度から日常生活に至るまであらゆる分野において、抽象的で目に見えない知識や概念を扱うための能力が要求されるようになった。

(複雑な法的手続き、資産管理など)

 

歴史的な過程の中で、抽象的概念を扱う能力が高い人ほど社会階層の上に行きやすくなっていく構造が形成されてきている。

見方を変えれば、そうした知的能力が低ければ高度で複雑化した社会に適応することが困難な社会になってきているということを意味する。

 

しかしながら、知能とは具体的にどのような能力かと言われると忽ち答えに窮してしまう。

現在、世界中で使用されており、我々にも馴染み深い知能を測る検査として、デビッド・ウェクスラーが改良を加えた知能検査がある。知能検査の結果は知能指数(IQ)として表され、得点の分布は平均値を100とした正規分布を描き、同一年齢集団内での相対的位置によってそれぞれの結果を比較することができる。

 

実際に個人の知的能力の相対的な水準を知るうえでIQはとても有用だと思われるが、ここでは他の用途についても検討していく。

 

教育現場においては、知能検査の結果は子どもの学習指導方針を考える上で指針となるのではないだろうか。

例えば、IQが高いのにもかかわらず、学業成績が振るわない子どもは、家庭の問題や友人関係、学習時間が取れない等の要因によってモチベーションが勉強に向かなくなっていることが推測される。こうした子どもの伸びしろは大きく、環境を整えたり、教え方の工夫をする事で成績が飛躍的に伸びていく可能性が高い。

 

その一方で、IQ自体はそれほど高くはないにも関わらず、学業成績がよい子どもは必要以上に無理を重ねて勉強についていこうとしており、精神的な負担に注意した対応が求められる。
 

どんな能力も社会的に認知されて初めて「能力」として定義されるが、公教育現場の価値基準においては明らかに「学力」が高く評価されている実情がある。

 

その一方で、社会的に認知されていない能力、即ち何らかの形式で測る基準とその方法を持たない才能や能力は、学校教育の場では認知されづらい。

 

しかしながら、実社会や世の中の仕事を遂行する上で要求される能力は学力という単一の能力では測り得ない。例えば、道路工事のような仕事で求められる能力は、知能検査やペーパーテストで測られるような様々な知識や抽象的な概念を扱う能力ではなく、肉体的に壮健であることや工作機械を器用に操る力、安全性への勘などといった能力である。こうした能力を総合的に表すための「一般道路工事能力」を測定するテストは私が聞き及ぶ限りおそらく社会に存在しない。

これらの事柄が意味することは即ち、道路工事全般をうまくやり遂げる能力を表す一般的な尺度が存在しないために、そうした能力は社会的な認知や評価を受けづらいということである。

以上のことからも、人間の優秀さをは単一の判断軸では測りきれないという帰結が導き出される。

また、ある研究結果からはIQに関しては70%以上、学力においては50~60%、遺伝の影響が関与していること分かってきている。

学力や知能に遺伝的な影響があるということは、同じような教育を受けたとしても、どの領域でどのレベルに行けるかどうかは、各人の遺伝的な素養によってある程度規定されているということになる。

 

生まれた時点で配られた、子ども自身にはどうすることもできない手札によって知的能力の大部分が決まってしまっているということは一部の有利な性質を持つ人間以外の大多数にとって聞こえのいい話ではない。

 

個人が自らの力を発揮して広く活躍しようと思えば、

個人が有する素質や才能、潜在能力を自ら/他者が見抜けるか否か、それらの能力を発揮できる機会と巡る逢えるか否か、が分水嶺となる。

 

才能の見抜き方に関しては、また別の記事で詳細を書こうと思うが、僕の考えでは概して

才能とは《自助努力の成果として獲得した知識や技術とは異なるもので“自分でも分からないけど、なぜだかできてしまう事”》

 

にその萌芽が見られる。

本来人間が有する才能や能力は多種多様であり、求められる能力は時代や地域、状況に応じて変化していく。

現代の知識社会において、一般知能の高い人間が高い社会階層へ進みやすいという側面があるのは事実であり、今後もその傾向が続いていくと思われるが、一方で様々な能力や才能を活かす機会や評価する基準軸が多様化すれば、今まで光があてられてこなかった人々に活躍の場が広がる事で人類の全体的な幸福度は向上するのではないかと個人的に思っている。

 

知識社会で活躍しよう

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日本人の9割が知らない遺伝の真実 (SB新書)

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頭のでき―決めるのは遺伝か、環境か

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あり余る可能性のどれを切り捨てるかを迫られる時期に差し掛かってきた

自分は今年度で大学3年生となり、今後の将来を考えていく上で現時点での自分の考えをここに記しておきたいと思う。

なにぶん僕は受験に失敗し人生を有利に進めていくためのカードを1つ失ってしまっていたので、大学1、2年生の時は組織の肩書きに頼らず個人として勝負していける実力を高めていく為に色んな分野に手を出して自分の可能性を広げようと努力してきた結果“今はそれなりに選ぶことが許される立ち位置にいる”と個人的に思っているが、此れから先は来年以降の就職活動を見据えて、領域を絞って特定の領域に関する高度な知識と経験を高めていく方向へとシフトしていかなければならない。

数年前までは社会的地位や年収を重視していたが“地位や位の高さが必ずしも人格的な高潔さに結び付く訳ではない”ということに気付いて以降自分の中で大きく価値観が変わっていった。

(歴史上登場してきた数多くの暴君や独裁者を見れば直ぐに分かることなのにどうしてそんな簡単な事に気づかなかったのだろう(ー ー;))


加えて、自分自身で何か主体的に動いていかなければ、親の意向の下で地方公務員になる未来がかなりの確率で目に見えている。
しかしながら以前ある方から「君のような人間が公務員になるのは勿体ない」という御言葉を頂いたことが今も自分の心に残っているので出来る限り公務員以外の選択肢も考えていきたいと思っている。

勿論、他の選択と比較・検討した上で自分で納得して公務員を選ぶのであればそれはそれで良いと思っているが、単に社会的な安定性などといった自分にとってコミットメントの低い理由から安易に公務員を選ぶのは試験対策に掛かる時間や参考書といった費用面を考慮しても割に合わない気がする。

なりたいかなりたくないかは別として、自分が学んできた分野と関連性があり漠然と興味がある職種や領域としては、

公務員・研究者・ソーシャルワーカー・キャリアコンサルタント・人材マネジメント・カウンセラー・グリーフサポート・メンタルヘルスマネジメント・ファイナンシャルプランニング・婚活アドバイザー・ハラスメント相談・受験コンサルティングetc...

それから自分の中で重視している価値判断基準として、

自己裁量権が大きいこと

“こんな人達と一緒に働きたい”と思えるような魅力的な人達と一緒に仕事ができること

社会全体の生産性の向上や最大多数の最大幸福の実現への貢献


これらの条件と自分がやりたいと思っていることを併せて考えると、

受験・進学・キャリア・就職・転職・結婚・出産・引退・退職・愛する人との別れ...何れも人生における節目と呼ばれる人生のターニングポイントとなる出来事を迎える時期であるが、僕は出来るならば

《人生の節目で出くわす種々の問題や悩み・不安などの解決をサポートし、本来適切な選択を選ぶことができたならば未然に防げたはずの不幸を封じ込めるための相談援助をしていきたい》

言葉を変えるならば、

《人生における意思決定の最適化を支援したい》

これらを可能とさせてくれる仕事に可能な限り近いものを選んでいきたいと思う。

 

以前どこかで“その道のプロフェッショナルとなれば何処からでもお呼びがかかる”といったような話を少し耳にした覚えがあり、その話が今でも心に強く残っているので、まずは自分の専門領域を極めた後にそれらを他の分野に活かせる道を探っていくというのが現時点での結論になるのかな。

何れにせよ僕は25-28歳くらいの間に結婚したいと思っていて(“この人と今後の人生を共に歩んでいきたい”と心から思える人がいればの話だが)、家庭ができたら自分一人の為の人生ではなくなってくるため、自らの可能性を追っていける猶予期間を定めて、それまでは必死に努力して夢を追いかけていたい。

 

障害者の歴史的な位置付けとは

障害者の歴史

 

 我々が障害者の歴史と聞くと、差別や迫害の対象となってきた凄惨な過去があったのだと往々にして思いがちである。

 とりわけ優生的な思想(人間の遺伝的素質を改善させ、優良とされる遺伝形質の増加を志向して、障害のような劣性とされる遺伝的形質を排除しようとする思想)が強く主張されてきた時代や地域においては「障害」とは忌むべき性質であったことは想像に難くない。

 さらには、第二次大戦中のナチスドイツによる障害者の大量抹殺や日本でも太平洋戦争中時には兵士として第一線で戦闘行為を行える力を持たない障害者は「国の役に立たない存在」「社会に不必要な存在」とみなされていたという歴史的事実があることは周知の事実である。

 

 確かにかつての障害者の中には健常者側の価値観の中で、社会から排除されることを余儀なくされ、隔離と抹殺の歴史の中で生きざるを得ない人々が存在したということは動かしえない事実なのだろう。

 しかしながら障害者関連の考古学資料や文献の中では、一部の障害者は朝廷の官位に準ずるほどの公に認められる権威を有する程の権力を有する者、楽器(三味線等)を演奏し物語を語りながら仏事や貴族の遊興の場で活躍するなど、自らの力量で社会的に認められてきたという歴史的な事実は一般的にあまり知られてはいない。

 

 時代や地域によっては「障害者」は忌み嫌われるどころか、むしろ尊重され、愛護すべき対象とみなされていたと思われるような事例も散見される。

 

 たとえ障害があったとしても、その集団の一員として十分に存在し得てきたという事実は障害者の歴史を語る上で、もっと語られるべきであると感じる。固定的で画一的な見方ではなく多様な解釈を可能とするためには、時代や地域を超えた知見を拡げることで物事を相対化できるようになるのだ。 

 

 勿論、過去に起きた事実を問題とし、そこに至るまでの経過や背景を時代性に基づいて認識することも重要であるが、大事なのはそれだけにとどまることなく現代に生きる私たちがそこから何を感じ取り、どう実践に反映させていくのかなのである。 

 

障害を取り巻く社会的要因 

 

 障害者はどの時代、どの地域においても一定の確率で必ず生まれてくる。これは抗いえない事実である。

 それ故に、障害者を受け入れる側の体制や条件、さらには彼らを支えようとする周囲の人々の絶えざる努力によって生活上の不利は十分に解消する努力を社会に課せられることは必然性を持つ。「障害者はつくりだされる」という言葉に示されるように、「障害者」という概念を規定する要因の多くは、その社会や人々の在り様によって決められるともいえるのではないだろうか。

 

 その上で、障害者福祉に影響を与えた思想を学ぶことで制度や政策ができた背景を知ることが可能となり、現在置かれている状況も推測することができると私は考える。ノーマライゼーション基本的人権は障害者福祉の思想的基盤として最重要なものであり、歴史的変遷の中で障害者が社会に適応し、様々な分野で能力を発揮するために国家や社会が果たすべき行動を要請し、その具体的権利を保障することにつながったものとして大きな影響を与えてきたといえる。

 

 障害はある特殊的な条件で発生するものではなく、誰もが人生において起こりうる普遍的なものであるとするならば、障害者が住みよい社会を志向することは私たち自身が快適で安心して暮らすことのできる社会を目指すことでもあるのだと思う。

 

障害とは何か: 戦力ならざる者の戦争と福祉

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生まれ育った環境と子どもを取り巻く問題

 我が国の子どもを取り巻く社会的な問題には貧困、虐め、児童虐待不登校体罰児童ポルノ、教育格差、家庭内暴力、引きこもりなどといった複雑かつ多様な問題がある。子どもの人権については貧困や飢餓、紛争で苦しんでいる子どもが世界中で現在でも数多く存在しているのが実態であろう。

 しかしながら、例えここで示されたような特定の問題を示す社会的な記号はなくとも、それらを明確に表す表現が用いられないだけで本来は社会的な問題として認識されるべき重要事項が見過ごされてきていて、そういった事柄は潜在的に数多く存在しているのではないかと最近考えるようになった。

 

 問題…それはひょっとしたら、クラスで無視されていることかもしれない、必要なものが買えないこと、学校に行くのが嫌なこと、家に居場所がないことかもしれない。

 

学校と家庭という固定的な空間を生きる子供にとって、こうした困難に直面した時に、心を許して打ち明けることができる関係性をもった人は必ずしもいる訳ではない。子供は「心のもやもやした感じ」を明確に表すことばを持たないだけで、不穏な雰囲気を感じて心を痛めること、孤立の中に閉じ込められていること、そんな誰もが知っている言いようもない不安感に襲われ、苦しむ子どもはきっと沢山いるのだろう。

 

そうした時に、赤の他人である周囲の大人が手を差し伸べることは決して容易なことではない。

 

言うまでもなく子どもの人生の歩みには、本人が生まれ育った家庭環境が多分に関係している。

 

 そして今ある家族の姿は長年の積み重ねの結果としてその形になっているということを我々は念頭に置かなければならない。親自身が表層的な事象にとらわれ、子供に対して真摯に向き合わず、温もりや人間未に欠けた育て方をすれば、それは問題行動として跳ね返ってくることは往々にしてあるのだ。

 

たとえ成長過程において現実社会の矛盾や歪みの中で世の中や人に対する不安や不信を抱いたとしても、人間に対する根源的信頼感を失わせず、当人を踏み留まらせてくれるものはそれまでの人生で培ってきた「大切な何か」であるのかもしれない。

 

『「存在の世話」をいかなる条件や留保もつけずにしてもらった経験が、将来自分がどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところでひとへの〈信頼〉を失わないでいさせてくれる。』

 

鷲田清一氏の著作にあるように何の見返りや条件もなく、自分がただそこにいるというだけで世話をしてもらう。たとえ記憶に鮮明に残らずともそういう経験があるかないかということが自分自身が生きることへの確かな意味を失わせないでくれるのであろう。

 

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

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生活保護では救えないセックスワークに埋没する少女たち

 生活保護制度は資産や能力等すべてを活用してもなお生活に困窮する人に対し、困窮の程度に応じて必要な保護を行い、健康で文化的な最低限度の生活を保障し、その自立を助長するものであり、現に生活に困っていれば誰でも権利として受けることができる制度である。この制度のおかげで、誰もが安心して暮らしていくことができることが保障されているため、「最後のセーフティーネット」と呼ばれている。

 しかしながら、近年の総務省の統計に基づく推計において公的扶助の捕捉率は3割程度であり、実際には保護を必要とする生活状況にある低所得世帯のうち約7割が保護を受けていないということが判明している。

 

 なぜ実際には受給できていない者がこれ程までに数多く存在するのか、制度から漏れ出た貧困層はいったいどうなるのか、そして彼らを救う手立てがあるのだとしたらそれは一体何なのだろうか。

私の生活保護を巡る問題意識は詰る所、この3点に尽きる。 

私がこの問題について考えるきっかけとなった背景には『最貧困女子』という一冊の本の存在がある。

この本の中では、一人のルポライターの手によって家族や地域、制度という3つの縁から切り離され、セックスワーク(売春や性風俗産業)の中に埋没し、社会から不可視化された女性や少女たちの実態が丹念に活写されており、問題の深淵が抉り出されている。

私自身、この本を読むまでは漠然と「生活に追い込まれても最悪の場合、国や行政が何とかしてくれるはずだろう」と安易に考えていた。

だが、実態はそうではなかった。

とりわけ私の淡い期待に対し容赦なく現実を突きつけ、心に突き刺さった個所が次の部分だ。

  • 誰かに助けてほしいが、彼女らは「制度の縁」とはそもそも相性が悪い。(中略)彼女らには「公的なものに頼っても何も解決しない・奴らは信用できない」という強い不信感や敵対意識が染みついている。
  • 彼女らの欲しいもののほとんどを、行政や福祉は与えてくれない。
  • 本来ならば女性の貧困は制度が救いとるものであってほしいが、現状に私的セーフティネット以上に当事者に肌触りが良く柔軟性に富んだものを制度側が作ることは、とても可能とは思えない。

 

 連鎖する貧困や暴力とネグレクトの果てに、どうしようもないくらいに追い込まれ、地域の共同体は無力で飛び出さざるを得ず、社会から爪弾きにされた末に、自らの姓を売り物にして生きていく少女たちを取り巻く壮絶な現実を前にして、行政や福祉が何もできないでいることに私はひどく無力感と救いようのなさを感じざるを得ない。彼女らはあらゆる局面で被害者であり、何も与えられず、虐げられ社会から除外され差別の対象となる。そして、彼女たちの抱えきれないほどの痛みと苦しみは決して「可視化」されることはない。

 私は、ここに既存の選別的福祉システムの限界を感じた。

 専らマスコミの報道では濫給についての報道が多く、あたかも生活保護を受けることを「悪」と捉えてしまう風潮が蔓延しているという側面もある。こうした報道により生活保護受給者に対して悪いイメージ持つ人も少なからず存在するであろう。

けれども、報道されるごく一部の悪質事例だけ見て、生活保護全体をバッシングすることは、適切ではない。

 さらには『最貧困女子』で描かれているように、申請する際に行政の手続き上で出てくる言葉の意味がそもそも分からず、説明しても理解できない、不遇な生い立ちから十分な教育を受ける機会を逸していることに加え、「硬い文章」を数行読むだけで一杯いっぱいになってしまうような人々もいる。こういったことは統計データや文献資料からは見えず、その痛みは決して可視化されることはない。

また、現行の社会保障は余りにも複雑化・多様化しており、どのような給付を受ける権利があるのかが非常にわかりにくいという致命的な過大を孕んでいる。困窮している人の中には保護を受けるに至るまでの繁雑な行政手続きを極端に苦手としており、制度の周知が十分でなく知識がないために、生活保護の利用を躊躇している人も多いと思われる。

  さらには『最貧困女子』で描かれているように、申請する際に行政の手続き上で出てくる言葉の意味がそもそも分からず、説明しても理解できなかったり、不遇な生い立ちから十分な教育を受ける機会を逸していることで「硬い文章」を数行読むだけで一杯いっぱいになってしまうような人々もいる。

 福祉行政に捕捉されることなく、支援の手に繋がることもなく、救済への斥力を有し、助ける術のない人々を一体どうしたら救えるのだろうか。何もできない自分自身に果てしない無力感を覚えずにはいられない。

 

 

最貧困女子 (幻冬舎新書)

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抜きんでた人材の扱い方

日本では、傑出した特異な存在が育ちにくい風土があると言われている。

《いつの時代も突き抜けた才能や能力を有した人間は限られている中でそういった人材をいかにして育て、社会の発展に貢献させられるか》というのは国策を考えていく上で見逃してはならない視点であると個人的に思っている。

そもそも才能のある人間というのは特定の時代に偶発的に多くの才能が存在するのでなくいつの時代においても才能を持った人間は存在する。

その違いは浪費された才能の多寡によって決まる。

トップレベルの才能を持っている人間を早くに見出し、恣意的に選別することで高い能力を伸ばす為の政策・・・所謂「選択と集中」はより優れた能力を持った個体を優位に発現させることを企図して実施される。

しかしながら、このような策略で「本物の天才」を探り当てることは容易なことではない。

何故ならば、

《能力の必然がなければ、偶然の幸いは活かせない》

という言葉に示されるように、素質や能力があって初めて結果を残すことが可能となるからです。当人がどのような能力を持っているかは、事後的にしか判断できないケースも多々見受けられる。

 

加えて、イノベーションを起こすような人材は既存の尺度や物差しでは測り得ないものです。その才能が先鋭的・前衛的・画期的なものであればあるほど、そうした能力を有した存在は社会からは「異端」として退けられ、憂き目にあってしまう確率が高い。

多様性を受け入れることのできる自由闊達な組織でなければ、真のイノベーションは生み出されません。

日本は科学技術振興費として拠出するのは専ら産業界と連携し経済的利益をもたらすことが高い確率で予測される、成功可能性が高い企画にばかり予算をつけていると言われている。

既存の教育体制は真面目で協調性があり、上からの命令に従順な労働力を組織的に生産することに傾倒し、個々人が有したポテンシャルを最大化させることを制度的に阻害しているのではないかと疑ってしまうほどです。

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本来「本物」が潰されることなく適切に育っていけば、社会全体にとっても多大なる利益をもたらすことになるはずなのですが、日本特有の「出る杭は打つ」という愚かな大衆メンタリティーによって本来の才能が開花することなく集団に埋没してしまっては本末転倒です。

自分より優れた存在、成功しそうな人間が自分と近いレベルに収まることを望み、引きずり下ろそうと考えてしまうことはとても愚かな行為だと思う。

〈行き過ぎた平等思想が社会を破滅に導くことは社会主義国の崩壊によって人類は既に証明してきたはずです〉

“優れた能力を持った者は稀有な存在であり、順当に育ってもらわなければ困る”という価値観が通念として広まっていっていけば才能が埋もれずに済むのだが...

 

天才という存在にとっては、標準スペックの人間に合わせてつくられた世間で生きていくにはあまりにも生きづらさを感じさせる要素が多過ぎます。

詰まるところ、天才が凡人の集団に入ってしまうと、互いに足を引っ張りあってろくな結果をもたらさないため、天才は天才同士の集団か個人でしか最大出力を発揮することが出来ないということ。

とりわけ成長速度が早い時期に周囲の大人が社会の価値観に無理に押し込んだり、自らの保身の為に若い才能の芽を摘んでしまうなど未来の可能性ある子供たちがポテンシャル開花に至るまでの阻害要因となってはいけないと心底思う。

 

人間社会の本質

僕らは現代のグローバル経済という特定の空間時系列の下で生きているが、国外に目を向けたところで経済成長に行き詰まり、従来の躍進を遂げることができなくなっているのは先進諸国共通の問題だとアメリカ🇺🇸留学を経て感じた。

つまり、メタレベルの視点で考えると日本という国が直面している課題の根幹部分には多くの国家が頭を悩ましている諸課題と共通する側面が多々含まれている。


加えて僕自身が強く実感した事は、

〈此の世の中は有形無形資産に関わらず巨大なゼロサムゲームの原理によって上から下まで貫かれている〉ということ。

ゼロサムゲームというのは“あるプレーヤーの利益が増せば、その分だけ他のプレーヤーの損失が増える”というゲーム理論の概念だ。

身近なことで例えるならば、じゃんけん✋
じゃんけんでは、あるプレーヤーが勝利すれば他のプレーヤーが敗北を被ることになる。

言うまでもなく、スポーツや利害が絡み雌雄を決する勝負事にはこの原理が適用されるが、これは恐らく他の多くの事象に関しても当て嵌まるのではないかと僕は思っている。

マルクスも言ってたけど、社会全体の資源が有限であり拡大余地のない市場では競争がより強化されれば、当然のことながら、極一部の勝者と大部分の敗者に分離してゆくのは不可避的な現象なんです。

(ある時間軸上において富の総量が常に一定で不変的だと仮定しています。実際には技術革新によって富の総量自体は増え続けているが、それに伴う弊害も環境破壊や公害、エネルギー資源の枯渇など多々有る)

さらに僕が強調しておきたいのは、こうした現象は物理的次元のみならず精神的次元においても紛れもなく存在するということ。

承認欲求や比較優位による充足感をある集団の構成員の全員に際限なく与えることは不可能なことがそれらを物語っている。

さらには一見無制限に注がれると思われる“愛情”に関してもそう。

【自分にとって大切な人、大好きな存在を喪ったときの哀しみの大きさは、相手への愛情の深さや共に過ごしてきた幸せな時間の長さに比例する】

【希望が裏切られたときの絶望は抱いていた希望の大きさに比例する】

【安価で質の良い製品を享受できる人がいる一方で、背後には底賃金で過酷な労働を強いられる外国人労働者の存在があるのだ】

【美味しい食事を嗜める人がいる一方で、飢餓に苦しむ人、殺された畜産、化学肥料による環境破壊などによる数え切れないほどの損失を伴っている現実がある】

要するに、
《幸福と不幸は、全体の利得の総和はトータルで見れば常にプラスマイナスゼロなのかも知れない》

功利主義社会は表層では光の側面しか照らされない一方で、それらが抱える闇は想像以上に深い。

〈人間は皆平等な存在だといった美辞麗句は幻想で、いくら文明が進歩しても人類がみな等しく幸福になることなどあり得ないんじゃないか〉と僕はニューヨーク🗽の街並みを眺めている中でふと思った。

仮に自分が幸福であり、恵まれていると感じているならば、それはきっと誰かの不幸の上に成り立っているという事を胸に留めておかなければいつか痛い目をみることになる。


まあでも世界は僕らの想像以上にずっとずっと広くて様々な場所がある。資本主義社会は利潤追求・効率化に向かいひとつの神話で世界を覆い尽くそうとしてきたかのようにも見えるけれど、現実にはそれは物事の一側面でしかなく、世界の文節の仕方次第で様々な様態を見せる。

我々の生活は、極めて脆弱な基盤の上に成り立っているという自覚があるかどうかで大きく変わってくる気がする。

他の誰でもない自分の人生を歩もうと思ったならば、思考停止して大勢と並んで歩くのでなく、社会が要請する圧力や参加から一定の距離を置いて、自己の責任において判断する能動的な意思決定を持つことが不可欠なのだろう。

当たり前の事のようにも思えるけれど、

〈自分自身の心ときちんと向き合うこと〉

〈一人ひとりとの出会いを大切にすること〉

この2つを積み重ねていけるかどうかで人生って大きく変わっていくんだろうな。
そんな事を都市圏から離れた田園地帯に佇む静かな学生街で感じとった。