蒼穹の叡智ーとある大学生の備忘録ー

旧帝落ち地方公立大学3年生。誰かの人生にほんの少しだけ影響を与えられるような文章を書きたい。

大学生活を通して感じた学問を学ぶ意義について

3月1日。本格的な就職活動が始まる日だ。
丁度説目となる時期なので、ここに僕が大学生活を通して学び考えてきた中で総括めいた事柄を記しておく。
これは僕自身の根底にある信念や軸でもある。

僕の思想・倫理観や原点の基礎は自分の過去の実体験に加えて多くの人々の影響を多分に受けて形成されている。
大学に入って以降沢山の人を見て出会ってきた中で、僕が心から尊敬出来る人だと感じるのは“優れた明晰な頭脳と弱い立場に置かれた者への温かな眼差しを持ち、身を粉にしながら自らの能力と時間の大部分を世の中を良い方向へ導く為に捧げている方々”である。

得てして自分は類い稀な才能と知性を持ちながらも健全な倫理観を持ち、その力を世の為・人の為に使おうと努力する人間に弱いらしい。

そうした尊敬できる素晴らしい方々との出会う機会に数多く恵まれてきたのは至極の幸せだったと心から思っている。彼らから学んだ影響は計り知れないが、単なる一時の学びに完結するのではなく、得てきた様々な経験や知識を次にどう活かしていくかという視点は常に見失わずに居続けたいと思う。

先生の御言葉
僕が尊敬してやまない先生方が仰っていた言葉を胸に刻み、時々思い起こすようにしている。

特に印象に残っているのが以下の言葉だ。

“私が教えている技術や知識は使い方を誤れば人を殺す事もできる

権威の名の下に物を使わずして人を抹殺する事ができる

過去にナチスは同じ原理に基づいた知識を利用して大量のユダヤ人を迫害し、何百万人もの罪なき人々を殺してきた歴史的事実がある

私達は専門職として自分達が持つ圧倒的な力を自覚し、この技術と力を人々の権利や生活を守る為に使っていかなくてはならない”

望む望まざるに関わらず人は地位や力や資質を与えられる。
それはどのように活かしていくのかというのは個人の意思とそれを裏付ける思想(+周囲の状況等)によって大きく左右されると言えるのではないでしょうか。

真の賢さや知性とは
知識とは、学問とは、専門職やエリートの責務とは、正義とは、歴史を顧みる意義とは、生きるとは、才能とは...こういった事柄を僕は大学に入った以降ずっと考え続けてきた。

大学受験の時は、あくまでも勉強は大学に受かる為の手段でしかなく、競争を勝ち抜く為に勉強していた。しかしながら大学で“学問”に触れる中で、既成の価値観を相対化する視点が培われ、受験や資格試験のようなペーパーテスト形式の学力検査で良い点数を叩き出せる事を絶対視する価値観が誤りであると感じるようになった。

所謂頭の良い人達の中には、一方的に自分の見識を捲し立てたり、相手の非を徹底的に論う人、学歴などで自分よりも劣った者をあからさまに見下す態度を取る人...そういった人達も少なからず見てきた。

彼ら程の頭の良さがあれば些細な論理的矛盾を指摘する事や自らの持つ知識で相手を圧倒する事ぐらい造作も無いだろう。自分自身も恐らくは受験に失敗して居なければ、そういった思想に陥っていた可能性は否定できないから尚更そういう思いに駆られてしまう。けれど今は知識の総量で上回ったり、相手を論破したりする為に、勉強している訳ではない。

論理や知識は自分の才を衒い相手の無知や未熟さを貶める為の道具では断じて無く、本来的には理路整然とした意見を述べ、建設的な議論を提起し妥当な解決策を導き出す為にこそ使われるべきなのだと思う。

(最も学問やビジネスといった限定的な世界において論理的思考力や知識や情報は至上の価値を持つのは間違いないが、自己を絶対的に正しいと思い込む事によって、他者の思想や意見に対し排他的になってしまうのは怖いなと感じる)

学問とは
僕が大学で3年近く学問に触れてきた中で感じるのは、学問とは、先人が遺した知恵と叡智を教え、物事の仕組みや構造を明示的に解明し、新たな世界の地平を切り拓き、現実の虚構や欺瞞を、己の無知や薄弱さを、白日の下に浮かび上がらせてくれる営為だという事である。

また、学問を別の言葉で言い表すならば、

学問は世の中を良くする術であり、

学問を学ぶことは、

自分が世の中に役立つ人材になることなのだろう。

学問に限らず映画やドラマや小説といった現実のあらゆる映像や文芸作品を含む媒体は、

人間は時として狡猾であり、残忍であり、未熟であり、無知であり、愚劣であり、尊大であり、狭量である事を教えてくれる。(こう書いてるとまるで病んでる人みたいだけど違うからね、現実を偽りなく見据えてると言って頂きたい)
そして其れ等が国や地域を問わず人類世界に深く根差しているいう実態をまざまざと見せ付ける。

その一方で人間は高貴で、勇敢で、優雅で、理知的で、思いやりに溢れ、善良な存在である事も教えてくれる。

大切なのは現実の都合の良い側面だけに囚われるのではなく、人間の不完全性や世界の不合理な面も含めて物事の全体像を大局的な視座で捉え認識可能な世界線を拡大することを通して世界に対する自己の受容域の拡大を図り、他者に寛容であろうと努めることなのだと思う。

『魅力の需給関係』における恋愛の特異性

恋愛関係と企業の販売活動をベースにしながら“モテる”ことの本質について僕自身の考えを記したい。
モテると言いつつ必ずしも、これは恋愛関係においてのみ当て嵌まるのではなく、

異性⇨消費者や顧客
モテる⇨商品を購入して貰える確率が高い

という図式に置き換えれば、世の中の需給関係を説明する上でかなり汎用性が高い説明なのではないかと思われます。

まず、恋愛においてモテるという現象を指し示す状態は数多く存在するが、僕自身が考える異性にモテることの定義として

《存在を認識された異性に好意を抱かれる確率》

というのが一番妥当性があると考えている。

「経験人数」「告白された回数」「これまでに付き合った人数」といった事柄もモテるという状態を説明するのに巷で頻繁に用いられている指標ですが、それらの多くは異性と出会いやすい環境であったり、接触の多いコミュニティに属している、告白という具体的なアクションを取るなどの一定程度の条件を満たしていることが前提となる為に、環境要因に大きく左右される傾向があります。
(例えばどれ程可愛い子でもずっと女子校で出会いが無ければ自分から異性を求めようとしない限り上記の指標値は自ずと低くなる)
その為に、これらの指標はその人個人が有する異性を惹きつける魅力を必ずしも反映したものとは言えない。

ここでは僕自身が考える、「モテる」の定義の一例として下記のAとBを比較する。ちなみに【告白された=好意を抱かれた】と同義であるとする。(説明の為に実態を捨象せざるを得ないのはご容赦願いたい)

Aさん 出会ってきた異性の数 100人
告白された回数 5回
Bさん 出会ってきた異性の数 30人
告白された回数 3回

告白された回数に限れば、Aさんの方が多いと言えるが《存在を認識された異性に好意を抱かれる確率》という観点から見れば、それぞれ5%と10%というような形でBさんの方が“異性にモテる(=魅力的である)”と言える。

ある意味人間の価値の格差というものを如実に表してしまっているので身の蓋もない話になってしまいますが、恋愛に限らずアイドルグループの人気投票、政治家の選挙、Twitterのフォロワー数などのように人間関係にはこうした側面があることは否定できない事実なのでしょう(悲しいけどこれが人間社会の摂理)。


さてここまでは、消費者が商品を購入するメカニズムを説明する上でも本質的な部分で通じるものがあるのですが、恋愛と商品を販売する経済活動における差異として、販売活動において商品は“取り引き数”という量的で計算可能な概念で需給関係を説明できる点にある。

そうした反面で恋愛の場合は、自分の想いの総量に比して成就する確率が高まる訳ではないため【相手が何を望んでいるのか、加えてそれらを満たしてあげられる要素を自分が兼ね備えているか】という点がとても重要となります。

「好きでもない相手からの好意」に迷惑さを感じた経験がある方には分かると思うのですが、時に好意を寄せることが相手にとって不都合をもたらすこともある。

人間関係では自分と相手との間で、互いの好意レベルや想いの釣り合いが取れている状態によって成立する絶妙なバランス感覚が求められる。
(更にそれは双方の価値観やその時々の状況によっても変わり得る性質を持つ、但し恋愛依存傾向のある人や異性から言い寄られる自分に酔ってしまうタイプの人間は例外的)

一方で商品の場合、購入する際に貨幣を媒介すれば(お金を払えば)必ず自分が望んだ物が手に入れることが出来る。
顧客の商品を購入する数量が多ければ多いほど、企業側は利益を上げることができるため、企業は“いかに売り上げを上げるか”ということに専念すれば良いと言える。

以上をまとめると、
《自分が求める条件に当てはまっていて初めて対象となり得る恋愛》と《求められればその対象は誰でも良い販売活動》における違いがあることが分かる。

こと婚活や恋愛においては、

あまん on Twitter: "「この人にずっと傍に居て欲しい」
と自分が思う人と出会った時に相手からも同じように思ってもらえる魅力を持ち合わせていることこそが最も重要なのであって、自分が惹かれもしないモブから好意を抱かれる数を誇る事の滑稽さといったら、ない。"

全方位から異性からモテるのは一部の恵まれた恋愛強者(イケメン美女、性格が良い、話が面白い、ハイスペ等)以外は難しいし、また一夫一婦制の日本においては最終的に一人の異性と長く関係も持つ事を念頭に入れておけば、自分の魅力を高めようとする方向性やアプローチの仕方が自然と明確になるような気がします。

オープンアクセスとなった時代におけるインターネット情報の価値とは

インターネットの普及によって嘗ての時代においては情報の大部分が大学や図書館等の特権的機関に領有されていた情報カーストの時代を超えて、ーオープンアクセスー公共で無料に情報アクセス可能な環境が構築されたという意味において情報格差がフラット化された現代社において“インターネット情報”の持つ価値は何処にあるのかについて以前に大学の友人と話していた中で感じた事柄を書き記しておきます。

友人の見解としては、

自由に“情報が見られる状態にある”ってのと“自由に得られる”ってのは違う。

例えば、高校の頃、ネット上に論文とかが上げられてるってのは知識として知ったけどCiNiiやGoogle scholarとかは知らなかった。
情報が膨大にあるからこそ欲しい情報を取ってくるには知識がいる。

つまり、情報自体にはそこまで価値はないと思うけど、情報を得られる技術を持った人間には価値がある。

との事でした。

確かにネットの登場によって多くの情報が世界中のインターネット利用者の手元に届けられることになり、人は欲しい情報にいつでも容易にアクセス可能になった。

‪けれど本当に良質で価値のある情報に辿り着く為にはリテラシー、情報収集力、理解力等が必要不可欠であり、それらの能力の有無によって個人の情報アクセス可能性は大きく左右される。

さらには、
人は自らの先端においてしか学ぶ事は出来ない

という言葉に示されるように例え優れた価値のある情報に触れられる機会に巡り会えたとしても、目の前の情報を適切に理解し咀嚼し得るだけの理解力や思考力、そして活動する術を持たなければ情報の本源的な価値は損なわれてしまうかも知れない。

この場合、情報リテラシー‪能力が未熟な人間にとっては圧倒的な機会損失になるけど、意識的に良質な情報を収集しようとする努力を怠らなければ無限に可能性の満ちた開かれた時代でもあるというお話でした。

普遍的な正義や理想論を唱えるだけでは争いや対立は解消されない

僕は時々人類社会のあらゆる場所に蔓延る差別や闘争を乗り越えられる思想や論理は存在しないものかと考えたりする。





戦争や少数民族迫害、差別といった一連の歴史的な行為の背景を見てみると、どの立場が全面的に100%悪いとかではなくて各々が信ずる正義や大義名分があり、それらが衝突し合い、関係修復が不可能になって争いになるというのがよく分かる。

例を挙げると、
社会における価値観としてABCがあると仮定する。
ABCは互いに矛盾しており、どの価値判断を優先すべきかという問題に迫られる。
矛盾している状態というのは、人がAとBとCの三者を同時に成り立たせようとしても、あることを一方では肯定し、同時に他方では否定することで論理の辻褄が合わなくなる事をいう。
ここで大きな論点となるのが、1つ1つの事象を個々に改善していったとしても、それが全体としての改善に繋がるとは限らないということ。
個人間の相互関係に関していえば、これを正すことができるのは道徳的教育と各人の良心の働きであるが、社会的な合意形成を図った上で介入する方略に関してはこれらの範囲外の問題となる。

そもそも他者を否定しなければ証明できないような「正義」なんて本当の正義と呼べないと思うが、こういった類の問題はどれ程うまく制度設計をしても人が生きていく以上は避けられないものだと常々感じる。


これらの問題を解決する事を目的とした社会規範や理想的な目標がしばしば唱えられるが、

教育や理念、文化規範などというものが冷酷な現実を前にしていかに無力であるか

理性と対話によって立脚点を見つけることの困難さ

支配や優越という欲求を満たすために他者を踏み躙ってしまう人間の利己性

これらの人間に存する本源的な性向に対して現代の先進諸国の多くが掲げるリベラリズムは現実に根ざしたビジョンを提示しきれていないと思われる。
けれども現実の不合理性を乗り越えるべく我々は答えを、合理的な選択を提示しなくてはならない場面に幾度となく直面する。

しかしながら単に批判したり観念的に終始する理想論を唱えるだけで現状が改善される訳ではない

(ただし進むべき方向性を指し示し、認識を共有化させるという点では多いに意味がある、そして時に不都合な真実よりも都合のいい虚言の方が多くの人にとって受け入れられやすい事も考慮に入れる必要がある)

綺麗事はいつだって世界中に飛び交っている。
でも世界は穢れたままだ。
ゆえに綺麗事は穢れを解消しない。

言葉やスローガンだけが独り歩きするのではなく、それに相応しい行動を選択すること、―それには生半可ではない覚悟と犠牲を伴うのであろうが―常に理想を希求しながらも現実に即して活動していくことが何より重要な事であると思う。

何が悪で、何が正義なのか。
利害や立場が複雑に絡み合った人間社会で明確な答えを打ち出す事は不可能だ。

だからこそ普遍的な正義や高邁な理想について滔々と論じ続けるよりも、より直接的な行動ーこの世界の何処かにいる苦しんでる人に手を差し伸べられる事の方が遥かに立派で尊いことなのではないだろうか、と僕は思う。

人権侵害や差別意識の超克に向けて

先日、大学の研修の一環で大阪を訪れた際に人権意識の高揚を目的とした施設の一つである大阪人権博物館及びかつての部落差別地域を見学する機会を得た。
此処では館内や周辺地区を巡る中で私が感じたことなどを備忘録的に述懐する。


大阪人権博物館は、大阪市浪速区にある人権に関する大阪府の登録博物館。愛称はリバティおおさか、運営は公益財団法人大阪人権博物館。日本全国でみられる同和対策事業の一つ。 (Wikipedia)

http://www.liberty.or.jp


大阪人権博物館

館内には「被差別部落」「ハンセン病」「アイヌ民族」「水俣病患者」「DV」「児童虐待」「HIV/AIDS」など様々なことを深く考えさせてくれる展示物や資料が数多く設けられていた。我々に突きつけられるこの世の惨劇模様を他の学生達の多くが何か目を逸らしてはならないものであるかのように真剣な眼差しで直視している姿が印象的であった。
得てして我々は陰惨な差別や人権軽視が平然と行われていたという事実に対して過去の時代の不当性や残虐性を一方的に糾弾し、物事を単純で分かりやすい一般的な倫理道徳的感情で処理してしまう状態に陥りやすいものである。しかしながら、差別構造や人権蹂躙は現代にも形式を変えて蔓延っているのもまた事実であり、我々も決して無関係な世界に生きているわけではない。現代に生きる我々、とりわけ過去の凄惨な歴史を知り、人権処遇改善を護る砦となる専門職の道を志す者の一人としてこうした惨劇を繰り返さないという自意識を強く持たねばならないと思う次第である。




また、この先も人類社会は不可避的に過ちを繰り返すであろうが、個人レベルで、或いは社会集団レベルでそれらを乗り越えるべく過去の歴史には目を向けられるべきであると感じる。

人間は愚劣なこともあれば崇高なこともある。

必要なのはその両方を知ることです。

被差別地区

私自身、被差別部落問題に関しては学校における講義や書物・文献上で見聞きした事はあったが、その詳細な実態は知り得る契機も無く今回の研修の中で初めて見知る事柄が数多く存在した。
被差別部落出身者はかつて特定の居住地域に出身しているという理由だけで貧困や環境の劣悪さ、進学や結婚における不利、職業の特殊性といった様々な差別的処遇に見舞われてきた歴史的事実がある。
しかしながら、差別の跡地や僅かな資料或いはその事実を語り継ぐ者の話の一部を聞き齧っただけで分かった気になってしまうことには同時にある種の恐ろしさを孕んでいる。無論、現代を生きる我々にとって過ぎ去った時代に生きた人々の日常意識や行動を推し量るには限界を伴うが、そこで生きた人々が遺した軌跡は多くの示唆を与えてくれる。ある特定化された社会の枠組みの中で生きる人々は、自らのアイデンティティーを引き受けながら、その中で人生における様々な哀歓を交錯させつつ生きていたのであろう。第三者である我々にとって当事者等がどのような社会的状況に置かれ、差別意識が何によって醸成されたのかについて目前の対象に想像力を働かせ、当時の時代状況を生き抜いた人々の生活や想いを与しようと考える姿勢が何より肝要な事であるように感じられる。

こと部落差別問題に限るならば出自が社会的に意味をなさない事こそは究極の解決といえるのではないかと思う。これは換言すると、部落差別出身者が自らの出自を公然と開示したところで何ら特別な意識を向けられないことである。現在では部落問題そのものは完全に解消したとは言えないまでも、また人々の価値観や感性、経験の差異はあるにせよ、多くの面で部落内外の境界意識は薄れてきており、前近代的な差別感覚を不当なものと見なす規範が優勢となっている。しかしながら前項で述べたように差別問題は対象が変化しただけで現代にも形を変えて存在している事に盲目になってはならない。現代に生きる人々は我々の時代に固有の「差別問題」と向き合い、超克すべく絶えざる闘いを挑むことが求められているのだといえよう。

差別問題を巡る論理

政策的な文脈に照らすとある特定の対象の利益を優先すると必然的に別の対象に振り向けられる筈であった資源が損なわれてしまう事になる。

差別に対する議論というのはそういう曖昧なものなのだ。あくまでも権力闘争や再分配を巡る議論であって、普遍的な正義の為の闘争ではない。

普遍的な正義となるには、分配するリソースが余剰にあるか、そうすることによって社会全体の生産性や幸福度の向上が見込める時だけだ。ある主体が別の場所から何かを移転させようとすれば、大抵は争いが生じる。

ビジュアル部落史

ビジュアル部落史

同世代のトップランナーとの高次元な対話の中で感じたこと

先日とあるきっかけがあり、同年代の学生起業家の方と一対一でお話をする機会があった。ここでは詳細を省くが日本国内で5本の指に入る大学で上位1%の成績を収めているような途轍もなく頭が良く、実績も申し分ない方であった。彼と話した興奮や余韻の冷めやらぬ間に僕がそこで感じた事をここに書き留めておく。

彼と話す中で率直に感じたのは、

世に名を馳せる大事業を築いた孫正義スティーブ・ジョブズのような人達ってきっとこういう人だったんだろうな

やっぱ“本物”は違うな

という事である。

会話の中で幾つか印象に残っている言葉があったので自分の朧げな記憶を頼りに紹介していきたい。

・自分一人で変えられるとは思っていない、歴史上で偉大な功績を残した人物の過去を紐解けば信念を持った誰か一人が起点となってそこから同じ志を持つ仲間が集まり世界を変えるという道筋を辿っているのは既に過去の歴史によって証明されている、自分はその起点となる最初の一人になりたい

・大抵の人は人と違うことに焦るが、私は人と同じことに焦る

・自分の周囲にいる10人の平均値が自分の将来の年収となる、現状に満足していなければ勇気をもって環境を変えるべき

・未来は誰にも分からないからこそ面白い、もしかしたら貴方も5年後、10年後にシリコンバレーで起業してるかも知れない、規定されたルートの上を歩むだけの人生は面白いか

・多くの時間や労力を賭けてきたものに見切りをつけるのは難しいが自分が本当にそれを必要としているのか自分自身に問いただした時に瞬時に答えが出ないのならそれは本来は自分が望んでいるものではないのだろう

こういう考え方は優れた才覚や基礎的なスペックの高さに加えてバイタリティや人脈や運など様々な条件に恵まれていなければ社会に通用しないー裏を返せば、際立った才能のないごく普通の人間が持っていても机上の空論に終始してしまうーのだが、業界のトップランナーがどういうビジョンを持っているのかを直接的に聞けたことは稀少な経験だった。


上記の内容に関連して自分が大学1年生の頃から漠然と感じていたことなのだが、

この世の中には限られた人間だけが到達する事のできる一種の空間構造のようなものが存在する。空間構造といってもその実態はSNSやコミュニティを介した人間同士の繋がりなのだが、そこで交わされる会話や紡がれる人脈は加速度的に世界を変えるほどの強い影響力を持つといっても過言ではない。より具体的な話をしていくと、この世の中には一般的な普通の人間が容易に立ち入る事のできない特殊で限られた人間同士のネットワークが存在し、そこで交わされる高密度な意見・情報のやり取りは世の中に強い影響を与える萌芽を有している。

そこで行き交う情報は、外部に現れない、希少な情報であることはもちろん、何より、良質な情報を元に極めて優秀な頭脳を介して生み出された、珠玉の意見であり、僕らが考えもつかないような、高濃度の会話が行なわれる。つまり、持てるものは持てるもの同士、お互いの利益を増幅させるためにつながり、そして、僕らが決して追いつけない速度で加速度的に次元を上げていくのである。遥か及びもつかないような世界がこの世の中には存在する。

加えて、限られた人間同士が共同的に事業を行うにあたって重要となるのは目的達成に至る明確な事業計画といったロジックの共有はさることながら、志や想いや夢や信念といったエモーショナルな内面的な部分を共有できるか否かなのではないかと感じた。こういう内面的な部分で引き合ってないと創発的な集団は持続的に機能していくのは多分難しいのではないかと思う。

今の時代、多分意志と資金的余力と知性と体力があれば大抵の事を成し遂げるのは不可能でない気がする。人類が発明・研究してきたイノベーションの進化は僕ら凡人の想像を遥かに凌駕していてそれを何の為に使うか、それを使いこなせるか次第で可能性は大きく左右されるのだろう。

長々と書き綴ってきたけど、やっぱ世界は自分が考えてるよりもずっとずっと広くて、世の中には桁違いに優秀な人間が沢山いる。人は自分が想像できる範囲内の人間にしかなれないけれど、今回の話は自分の想像力の上限値を一気に引き上げてくれた ...そんな経験だった。

残念ながら今の自分の能力では彼の壮大なビジョンの力になれる自信はなく(思考速度・知識量・熱意・人脈・学歴をはじめ全てにおいて彼との間に圧倒的な差があり自分は彼の下位互換にしかなれないと直観的に感じ取ってしまった)、事業を興すメンバーの勧誘は見送らせて頂いたが、近い将来必ずや業界に革命を起こす事になるであろう彼の話を聞けた事は非常に得難い貴重な経験であったのは間違いない。

自分の中にこれからも大切に留めておきたいな。

かつての自分を救いたいという想いの中で生まれる利他的思想

最近色んな話を聞く中で福祉や医療の分野に進む人達って根底には弱い立場に置かれた人や困っている人達を助けたいという想いがある人が比較的多いような気がしています(もちろん全員が全員そういう訳ではないですが)。

でもそういう感情や動機ってどこから来るんだろう。誰かを心の底から救いたいと思う動機って何があるんだろうって考えてみると色んな理由があるはずで、

・困ったときはお互い様とか、見返りが期待できるかもとかそういう損得勘定から?
・深い考えに裏付けられた強い信念から?
・かつて自分が助けられたことに恩義を感じているから?
・許せないとか、見捨てる事ができないとかそういう理屈を超えた衝動から?

対象や状況によって答えは違うと思うけど、どんな理由であれ誰かを救いたいという思いを持てるのはとても素敵な事だと思います。


これに纏わる話でタイムマシンの発明に全人生を捧げるロナルド・マレット博士の波乱万丈な人生を思い起こしました。

「十分な資金さえあれば、タイムトラベルは必ず可能になる」!! タイムマシン製作に本気で取り組む科学者の挑戦

タイムマシンの製作に人生をかけるマレット博士。その強い想いの背景には、彼の生い立ちが大きく影響していたようだ。

ニューヨークのブロンクス地区に生まれた博士は、10歳の時に父親を心臓発作で亡くした。その後、家族は親戚を頼って各地を移動するなど、貧困に苦しんだという。「父親が33歳という若さで急死しなければ……」という思いが消えることはなかった模様。

そのような中で出会った一冊の本、「SFの父」ことハーバート・ジョージ・ウェルズによる『タイム・マシン』が、博士の運命を決定づけた。そう、過去に戻ることができれば、父親を救うことができることに彼は気づいてしまったのだ。その後、若き博士はベトナム戦争に従軍してアメリカ空軍の「戦略航空軍団(SAC)」に配属される。そして、復員兵を対象とした支援を受け大学進学を果たし、卒業後はユナイテッド・テクノロジー社に就職。レーザー技術の研究に従事した。その時の経験が、現在のタイムマシン理論につながったという。

「いつも父のことを考えています。彼に会いたいという熱意が、今の私を作り上げました」(マレット博士)
(中略)
もしも博士の理論が現実になっても、残念ながら「父親とコミュニケーションを取る」という博士の願いは実現しない。それでも彼は、
「想像してみてください。もしも過去の人々に警告を送ることができたなら、数えきれないほどの命を救うことができるでしょう」
(中略)
どんなことでも、取り組まずして成功することなどあり得ない。不可能と思われていることに挑み続けてきた人々が、歴史を切り拓いてきたことは紛れもない事実だ。


また他にも類する話でコウノドリ特設HPに鴻鳥先生のモデルになった荻田和秀先生がある中学生の女の子に対して答えた内容が深く僕の心に沁みました。

Q.
私は今中学1年生ですが小学校2年生からずっと産婦人科医になりたいと思っています(助産師も興味があります)
理由はこの前のコウノドリ2話のように私の母も私を妊娠中に子宮頸がんであることが分かって子宮摘出など色々しましたが2歳のときに亡くなってしまいました。
私のような悲しい思いをする人を少しでも多く減らしたいと思ったからです、しかも産婦人科医にはなにか言葉で表せないようなものを感じています。コウノドリ1のおかげで、さらにその思いが強まりました。医者になるのはそう簡単では無いので今のうちから出来ることや、やっておいた方がいい事はありますか?
また先生はどうして産婦人科医になったんですか?どうしても産婦人科医になりたいんです。よろしくお願いします。

A.
君は辛い思いをした分、凄くいいお医者さんになるに違いない。もうそれは間違いない。
でも、お母さんの仇を討とうと思っているなら、医者になるのはやめといた方が良い。君がしんどくなりすぎるから。
どんなに医学が進んでも、どんなに一生懸命、考えられる限り最上の治療をしても、助けられない人は必ずいる。全ての人が思い通りに治る訳ではない。君はそんな場面にプロとして立ち会える?ずーっと冷静でいられる?

だからそれを乗り越えていけるように…いま、本を読みなさい。小説でも古典でもノンフィクションでも、とにかく出来るだけ沢山本を読みなさい。そこにはいろんな時代のいろんな人のいろんな悩みが書かれてるから。
そして音楽を聴きなさい。クラシックでもジャズでも何でもいいから、音楽を聴きなさい。そこにも作曲者や演奏者の思いや悩みが奏でられてるからそれを感じて欲しい。
それらを目一杯取り込んで…自分の思いや悩みと置き換えなければいけない。そんでもっていつか自分の気持ちをぐーっと楽にさせる事が出来たら、それから医療の道に進みなさい。
必ず、進みなさい。まっすぐ、進みなさい。
その道のどこかで、君を待ってる。




荻田先生は中学生に「未来は決して復讐の為にあるのではない」という事を伝えたかったんだと思います。
亡くなった母を助けられなかった無惨さ、虚しさ、無力さ...そういったものを引き受けて背負って生きていかなければならない中で、どれ程最善を尽くしてもそれでも救いくれない現実を知ってしまったら、何処かで耐えられなくなる時が来てしまう。

現実とは往々にして複雑で、思い通りにいかない事も多々あるが、その中で踏み止まり続けるには強い気持ちや覚悟が必要なのだと思います。

否定的事象と利他的思想
自分が経験した辛い想いや経験を、きっと世の中には自分と同じような苦しい思いをした人が沢山いて、そういう想いをする人を少しでも減らしたいという想いの中には利己的な思想と利他的な思想の両方の要素が含まれているような気がします。それはかつての自分を救いたいという気持ちと似通っている。

だからこそ自己本位に陥ることなく、偽善者だと罵られることなく、純粋に誰かの為にという想いが生まれる。

僕自身大学生活の中で色んな人達と出会って、その中でたくさんの人間の悩みや不安やトラウマを聞いてきて、自分なりにそれをどうにかしたいと思って踠き考え続けてきて、自分が何とかできないかと沢山勉強してきて、その答えが欲しくてずっとやってきたけれど未だに自信をもって“これをやりたい”と言い切れるものは見つかっていません。

そうした中でふと思いました。

自分の抱えている問題を解決したいと思っている他の誰よりもその人自身や周りの人達なのではないかという事

以前に聞いた話なのですが、難病を患う患者の家族は医者よりもその分野の治療法に詳しくなる事があるそうです。
病気になってしまった最愛の人を是が非でも救いたいとインターネットや書籍でありとあらゆる情報を掻き集めて、血眼になって今ある医療の中で最善の方法を探そうとする。

本当にその問題をどうにかしたくて、現状を変えたいという強い思いを持ってるのはその人自身やその人を大切に思う周りの人達であり、それを乗り越えるのが個人の力では不可能な際に他者の力が必要となる。
特にその領域に精通していなければ対処出来ない高度で複雑な問題には体系的な技術や知識を有する専門職の力が求められる。

人は自分が経験した範囲内でしか本当の意味で共感する事はできません。でも少なからず人が抱える悩みには時間や空間を超えたある種の普遍性のようなものが含まれていると思う。そこに気付けるどうかっていうのはきっと凄く大きい。それは世の中のニーズであり、誰かが何とかしないといけない物なのだから。

そう考えていくとこの世の中の職業は誰かがそれを必要としてるから、その職業が存在する訳であって、そうした意味において世の中の仕事は本質的に全て利他的なものなのだと思う。

要するに仕事というのは突き詰めると、
誰の、どんなニーズに、どうやって応えていくか、そしてその為に自分が何ができるかという点に集約される


以上述べてきましたが結論として言いたいことは、自分が何かを目指す明確な理由を説明する為には自分自身の原体験のようなものが不可欠なのだという事。自分の今までの人生を振り返って、どういう時に自分が悩んできたのか、その時に何があれば良いと思ったのか、何に自分は憧れてきたのか。そこに対する後悔の深さや想いの強さが強ければ強いほど、より自分の物語が幾層にも濃くなってゆく。そしてその物語は此の先どんなに辛くても、その実現のためには如何なる労苦も厭わない覚悟や想いの強さを裏付けるものとなるような気がします。そういう物を見つけ出すには自分の人生を徹底的に顧みていく必要がある。やりたい事が見つからないという話をよく耳にするけど僕自身が感じているのは、

“答えはこれまでに自分が歩んできた軌跡の中にあるのだという事”

多分きっと皆振り返って何も無いような人生を歩んできた訳じゃないよね?
思い返してみれば“あの時...”そう思えるような物がきっと各人の内にあるはず。

最近は就職の事を色々と考えますが、自分が何をしたいかというのはきちんと筋道立てて人に語れないといけないし、自分が大切にしている「価値観」が何かというも改めて見つめ直したい。