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旧帝落ち地方公立大生のブログ

地方公立大学2年。品格があって、奥深く、それでいて分かりやすい文章を目指して綴っていきます。ある事象の背後に存在する本質を的確に捉え言語化して表現したりします。

ニューヨーク&トロント主要観光地まとめ

春休みを利用してアメリカ(ニューヨーク州)とカナダ(トロント)に行ってきたので写真をまとめて乗っけておきます。

《ニューヨーク・マンハッタン》

街並み

セントラルパーク(Central Park)

Belvedere Castle

タイムズスクエア(Times Square)


国際連合 (United Nations Headquarters)



エンパイア・ステート・ビルディング
(Empire State Building)


トランプ・タワー (Trump Tower)

ロックフェラーセンター(Rockefeller Center)

自由の女神像(Statue of Liberty National Monument)

セント・パトリック大聖堂 (St. Patrick's Cathedral)

ニューヨーク近代美術館
(The Museum of Modern Art)

メトロポリタン美術館
(The Metropolitan Museum of Art)

ラジオシティ・ミュージックホール
(Radio City Music Hall)

ニューヨーク公立図書館
(New York Public Library)

アメリカ自然史博物館
(American Museum of Natural History)

ニューヨークお土産


トロント.Toronto》

ナイアガラ・フォールズ(Niagara Falls)

ナイアガラ周辺

アメリカ🇺🇸・カナダ🇨🇦国境

ロイヤルオンタリオ博物館
(Royal Ontario Museum)

CNタワー(CN Tower)

ロジャース・センター(Rogers Centre)

カーサ・ローマ(Casa Loma)

自分の将来をどのようにして決めていけば良いのか

学生時代においては誰しも将来自分がどんな職業につけば良いのだろうかと思案に暮れるのはきっと誰しもが経験のあることではないでしょうか。

自分のキャリアを考えていく過程において僕が重視している労働や職業に対する考えや視点に関してノート📔に書き記してあるものをプログに載せておきます。


まず個人的な属性に関して、

自分の能力・性能・才能
境遇・人生観・価値観
人間の在り方

といった資質の中で、どういった基準を重視するかの比率はその人の性向や人生経験、時代や社会の情勢・空気といった様々な要素が関係しているけれど、その中で「ぼんやりと見えてきたもの」から、“これが自分の進む道”だと思えるものを探ぐっていく過程がとても大切だと個人的に思っている。

一部の例外的な存在を除いて、大部分の人間は思考量・行動量の総和から得られる内省と純粋な経験体験を通して蓄積されたストックによって自分の手持ちのカードを切りながら人生を生き抜いていく。

僕は学生時代や若い時期というのは、基本的に
「積み上げていく人生観を持つべき」時期だと思っている。

《自分のスペックを上げる努力を惜しまないこと》
《視野を広げること》
これらを高めていく事が何よりも大切な事だと思う。

そもそも人の人生は有限だけど、全体を十分に活用すれば、偉大な事を成し遂げるに足る潤沢な時間が与えられている。生涯をかけてやりたい事がある人間はそういった意味で強い。

それに自分がどこに向かって進んでいるのかも分からないまま日々を過ごしていくことは、過ぎ去った過去に意味付けを行うのが難しくなる。


さてこれまで長々と人生や資本主義社会の労働について綴ってきたが、要するに僕が自分のキャリアを決めていく上でどういう視点で選んでいくべきだと思っているのかというと、究極的に

《プロフェッショナルとして生きていくか》

《代替可能な労働力として生きていくか》

の2択だと思っている。

常人の仕事というのは基本的に独自性が求められず、規格化・細分化された結果、マニュアル通り一定の手順を踏めば、業務遂行に要する基準に適合してさえいれば、

“自分ではない他の誰かによっても代替可能なもの”であるという事。

端的に表すと
《他者との交換可能性の有無》がプロフェッショナルかそうでないかを規定する重要な要因となります。


勿論、専門家・職業人という言葉に示されるようにプロフェッショナルの条件として、

【ある職業・任務を行うのに必要かつ相応しい条件を証明する“資格”といった社会的証明】

【ある特定の領域・分野に特化している】

【《自分の有するスキル・ナレッジ×顕在・潜在的なニーズ》=独自コンテンツ】

【どんな悪条件でもとにかく結果を出すことが求められ、結果を残せなければ自然淘汰されていく熾烈な環境】

【自らに課せられた要求・業務に対するスピードと正確性への的確な対応】

【自分が価値を提供できる存在であるか否か】

【マニュアル化できないハイレベルな仕事のステージ】

といった事柄が存在します。

《プロの世界は決して甘くない》
そこで熾烈な争いが絶えず行われているからこそ、第一線で闘う人間は磨かれていく。


“生活の為”といった、専ら物質的な報酬や安定性を確保することを目的とするのであれば、組織に献身する過程を通じた範囲内で与えられた業務をこなしていくような労働形態を選んだ方がいい場合もあれば、

個性の発揮や自己実現、職業的役割を全うし、それを遂行する事で他者や社会に広く貢献し、他者から認められ、自分の存在を評価されたいといった『己の中に物語性を見出したい』人にとっては各分野のエキスパートとして創造的な価値を提供したり、専門性を積み上げて他人に求められるような仕事を選んでいった方がいい事もあります。

(もちろん前者においても客観的、間接的には匿名の非特定多数の人々に相互依存関係を成立させ、社会の維持・発展に一定程度寄与しているが、独自性の発揮や自律性、仕事への誇りといった側面での差異は厳然として存在する)

究極的には、
『社会との接点をどう持つか』に帰結する問題であると言っても差し支えないのかもしれません。

何が良くて何が悪いかなんて決めきれないし、未来なんて誰にも分からないのだからこそ、僕らはその時々で絶えず最善解を模索し続けていくしかない。

現代における職業と社会的位置付けの関係性

現代社会においては封建時代にあった身分による職業の固定化や近代市民革命を経て、私有財産制と共に職業選択の自由(憲法22条1項)が保障されるようになった結果、名目上は個人が自己の従事する職業を自由に決定する権利を保有しています。

〈職業に貴賎はない〉という言葉もありますが、理念上ではともかく、現実的には《職業が今日では財産や家柄に代わって階層を決定する重要な要因になっている》のは否定できない事実でしょう。

これは主として、〈職務的役割の遂行と引き換えに一定の給与に規定された生活水準や生活機会、社会的地位が付与され、それらに相まって社会的な評価が下される〉ことに起因します。職業=自己の存在証明と言っても過言ではない程、その重要性は大きなものだと思います。


そしてここからは労働をめぐって様々な社会問題が提起されていますが、そうした背景にある近代資本主義社会特有のシステムから職業の位置付けを考えていきましょう。

資本主義が高度に発達し、産業革命後の合理化・機械化・分業化の趨勢を受け社会的分業が成立している現代においては、《労働が全体としてのまとまりや精神的意味合いを喪失し単調化し人間疎外が深刻化している》といった批判は現代の労働問題を考える上で頻繁に目にする言説です。

この問題を考えるうえで、重要な視座として
《経営の本質とは利益を生み出すこと》に他ならないという事が挙げられると思います。

これを図式化すると【利益=収益ー費用】という形で表される為に、経営者にとって雇用労働者は費用の一部に過ぎない、すなわち会社に利益をもたらすことが第一義的となり、会社の歯車⚙を回す部品(代替可能な道具、駒)という事になります。歯車としての希少性によって組織内の自分のポジション(位置関係)が決定する。取り替えの利かない特殊な歯車になることが組織のヒエラルキーの上層へ登る為の必要条件となり、組織は最終的には上層部が決定権を握っているため決して闘いを挑んではならないということは心に留めおくべきでしょう。

変化の激しい現代においては、昨今で言うならば過労自殺、長期間労働、不払い賃金、派遣切りなどの一連の事件に代表されるように企業に隷属する雇われの身であれば、都合の良いようにスポイルされ不要になれば切り捨てられるといった事は往々にして有り得ます。

(これは経営者の方のTweetなどを拝見する中で、こういった思想を持つ方は少数派ではなく、まして一個人が例外的に非情な性質を帯びているという訳でもなく、そうでもしなければ激しい競争を生き延びる事が出来ないという弱肉強食の資本主義というシステムそのものに端を発するものであると見たほうが良いと感じた)

基本的に《仕事とは職業に課された要求に応えること》です。上記で述べたように企業という性質上、利益を得ることを一義的に考えた上で《事業の効率化》という概念は極めて重要であり組織運営を行っていく際に絶対に外せない視点となります。

効率化を図ることを志向する中で、労働者には「淡々と与えられた業務をこなす」、すなわち組織内で各々が“自分に課せられた役割を全うする”ことが求められる。

分業化・細分化がなされ、単調な作業をひたすら処理する過程では、労働にやりがいや自己実現を求めることは困難であり、キャリア形成においても不利となり、給与面でも報われづらいのが現実です。


優勝劣敗の人間社会において、労使関係が対等であるべきだというのは理想に留まり、最初から社会がそういう仕組みで動いてると分かっているのであれば、そうした中で自分が生きやすい道を選択することが各人の生き方を考えていく上で重要な視点であると思います。


次に、現代の職業類型を主に7パターンに区分すると次のようになります。

専門・管理・事務・販売
熟練・半熟練・非熟練

上記の4つが俗に「ホワイトカラー(非肉体労働)」
下記の3つが「ブルーカラー(肉体労働)」と言われる職業です。

これらをより単純化すると、
【具体的な指示を出す人】
↕️
【指示を受けて作業を遂行する人】に類型化されます。


産業構造の変容に関して『ポスト工業化社会論』を唱えたアメリカの社会学者ダニエル・ベルのいうように

《脱工業化した社会のおいては、理論的・技術的な知識が中心的な意義を有し、それらを担う専門的・技術的階層に優位性がある》ことが、現実的に専門や管理を担当する職業に高い社会的評価が与えられ上層を形成し、一方で非熟練で単純な作業が課せられる職業は下位層に位置付けられることが多いことを示唆しています。

こうした格付けは高度な専門知識・技能や責任の重大性の如何を基準にして行われることが多く、その職業が
《機能的に重要であり、希少価値が高ければ高いほどシステマティックに上層部に吊り上げられるようになる傾向があります》


以上を通して現代社会の大枠を俯瞰したうえで、
“それでは私たちはどのようにして自分の職業を選択していけば良いのか”ということについては、次の記事に詳細に書きます。

概念の操作

よく自分の脳内で頻繁に登場するキーワードを列挙してみました。
こうして改めて振り返ってみると自分が関心のある領域が浮かび上がってきて、自分の思考を俯瞰できるのでお勧めです笑


ライフヒストリー
ポテンシャル(可能性)
世界の彩られ方
社会の仕組み
精神分析
ナラティブセラピー
社会階層
実現可能性
価値の相対化
断片的なものを紡ぐ
学術的知見の援用
アフォメーション
経験の再現性
精神的な成熟度
言語運用能力
情報の集約
実利的関心
上位概念による包括
多数派による専制
自己と他者の多角的認識
努力の影響範囲の大きさ
限られた人間のみが辿り着ける領域
緻密な論理
分析ツール
抽象的思考
遺伝子解析技術
許された特権
身の上話
自助組織
自発性
環境への接続
自己変容
受け入れ難い現実の直視
キャリア教育
分かち合い
インストール
遠大な目標
高次元への憧憬
自己の存在証明
業を背負って生きる
使命
原体験
境遇
素質や才能
覚悟
価値観の相違

《キャリアコンサルタント

底辺から社会階層を這い上がり、人生を逆転しようと思ったならば、あらゆる物を犠牲にしなければならないのかもしれない

学歴社会批判に関するネット記事や本などを拝見していると

「大学が階級社会の再生産装置と化している」

すなわち、《競争社会において、大学がある種の画一的な学力間に基づき、国民を選別し序列化させ、格差を再生産する選抜機構となってしまっている》

といった言説を頻繁に見掛けます。

こうした主張の背後に存在するのは、

当初の能力差は僅かであったものの、
《学歴によって一方は周囲から高い期待値を受け、良質な成長機会を獲得できる可能性が高まり易い人》と、
その一方で《適切なチャンスを与えられずに単純作業に埋没していく人》との間に能力、人間関係、収入といった面でみるみるうちに差が開いていくという現実があるのではないか、という事です。
(もっとも高学歴の人の方が種々の能力や目標に対する取り組み方等で優れていることが多いという側面を考慮に入れる必要があるが)


稀に学歴や家柄が恵まれなくとも社会的成功を収める者が存在しますが、それらは

《運が良かった》

《実家が裕福である》

《勉強をまともにしてこなかっただけで元々のポテンシャルは高い》

といった所与条件の前提がないのだとしたら、【僅かな可能性を掴むためにあらゆるものを犠牲にして日々を送り、果てしない努力の結果、人生を切り拓いていった】パターンである確率が高いと思われます。

大多数の人は現実を変えようと行動を起こそうと試みても、最終的には易きに流され生を浪費して過ごしていく生き方を選んでいく。
悪環境に生まれた人間の中には、苦しみに耐えきれず最終的に自殺を選ぶ人間も大勢います。

一方で、這い上がろうとする人達は途轍もない痛みと恐怖を伴いながら、様々な重圧に耐え、想像を絶する精神的負荷と闘いながら上を目指していく。

“これまで生きてきた中で己が思考してきた全てが言い訳であった”と、“負ければ終わる”という覚悟を決めて自分を引き止めて毎日必死に食らいついていく。

加えて、その過程では必然的に《孤独が深化する》ことになります。

“当初は同じ志を共有していた仲間が、次第に耐え切れずに離脱していく”という経験を恒常的に経験していき孤独に苛まれることになる。

人生の場面を思い起こせば、こうした事柄は多くの人の実感値としてあるのではないでしょうか。

これは部活や学校行事、仕事などでも“真剣に取り組んで結果を追い求めようとする人間”と“それについていけなくなる人”が出てきて、徐々に離れていく...といった現象とも酷似しています。


ある方のTweetを引用させて頂くと、

悪い方向に進んでしまった友人、自殺してしまった人、脱落した同期、今日も大勢不条理に死んでいるのが現実だけど、だからと言って一緒に死ぬ事が答えではないと思っている。ごめんねと私は先に行くねと思ってやり続けるしかないんだろう。(‪@lableuroseepine)‬


“なぜそこまでするのか”

そう思わずにはいられない。
いったい何が彼らをあそこまで駆り立てているのだろうか。

あらゆる逆境を乗り越えた先に辿り着いた社会の上層部、トップレベルや本物しかいない環境下では、常人には想像もつかない程の、文字通り“殺し合い”と形容しても差し支えない闘いが繰り広げられています。

常人の精神力では耐え切れない壮絶な痛みに耐え抜き努力し続けた者だけが辿り着ける境地というものがあるのです。

努力とは高次元の環境に辿り着く為の、環境から選ばれる為の入場券のような物なのかもしれません。

しかしながら、その結果彼らが得るものは、犠牲にしてきたものと等価値で有るかは定かではありませんし、ましてや幸福などとは対極に位置するものになってしまう事が多いのではないか。

《心を喪ってしまったら、人は人でなくなってしまう》

結局のところ、素のままで勝負して勝てる人なんて限られてるし、良いもの、凄いものを生み出せる人は裏ではそれ相応の対価は払ってると見たほうが良いでしょう。


人生は基本的にクソゲーなんです。
あまりにも運が占める割合が高すぎる。世界の彩られ方も与えられた所与条件・選択肢も結局は“運”という要素に帰結してしまう。

『自分にとって良い社会が、じゃあ別の誰かにとっても良い社会であるのか』と言われたらそうではない場合だって多いんだ。

だから不幸な生い立ちの人間が主観的な幸福を得ることは、ラクダ🐫が針の穴を通る事よりも困難な事であるのかもしれない。

それでも、歯をくいしばり血眼になって必至に自らの信じた道を突き進んだ末に成功した人間に僕は心からの称賛を送りたいと思う。


痛みに耐えてよく頑張った、感動した。
(小泉純一郎)

全力を尽くして敗北した人間にしか出来ない生き方とは

《全力を出さないうちは「可能性の中に生きる」ことができる》

この言葉はすごく実感値として分かります。

全力を尽くすということは、自分の持てる力すべてを発揮してなりふり構わず取り組むということです。

だからこそ、全力を出し切った末に敗北した場合、それは完全に自分が実力不足によって敗北したことを...自分が劣った存在であるという現実を否が応でも突き付けられることになります。

しかしながら、全力を出さなければその人は“今回は本来の自分の力じゃない、実際はもっとやれるはずだ”と自分を擁護することができる。

ちっぽけな自尊心が浅薄な希望を抱かせてくれる。

自分を守るために、時として全力を出さないことで“自分の世界内での可能性を守る”ことはできます。

《本来、俺(私)はもっとやれるはずだ》と。


ただ、これでは駄目なんです。

なぜなら、『努力でどうにかなる事』と『努力ではどうにもならない事』の線引きができないから。

結局のところ、僕がこれまでの幾多の挫折から学んだ大切なことは、努力すれば実ることと、努力しても実らないことの境界線を把握できた事でした。
自分が怠けたからできなかったのか、それとも素質がなかったからなのか。“現実”を知れたこと。


加えて、世の中には、自分の力によって解決出来る問題と出来ない問題があります。

厳しい現実、どう足掻いたってできない事は躊躇なく“見切る”覚悟が必要な場面は人生で幾度となく直面します。

だからこそ、全力を出して自分の限界を知っている人間は強い。

彼らは決して理想論ではなく現実的な目標を最適な配分、方向性、量の努力によって置かれた環境下のチャンスを掴み、目の前の壁を乗り越えていくことが出来る。

《諦めなければ夢は叶う》

《人間やれば出来る》

なんて甘い言葉は、一見真実味を帯びているようで実情は弱者をターゲットにしたプロモーションである可能性が高い。

等身大の自分を正しく認識し、現実を知り、その延長線上に理想があるということを内心に留めておく事が何よりも大切な事だと思います。

諦めを越えた先で頑張り続けていれば、きっと誰かが見ていてくれる。

《限界を見据えなければ覆すことはできない》んです。


これに関連してフランスの社会学者、P.ブルデューは、
「重力の法則があればこそ、飛ぶこともできるのです」という言葉を残しています。



これが〈世の中の多くの成功モデルの秘訣〉ではないかと僕は信じています。



P.S 世界のどこかにいる志半ばで敗れてしまった人に

《一度破れた夢は、嘗ての自分が願った通りの形で実現することは叶いません。

たとえ希望を取り戻したところで、それには必然的に大きな代償を伴うことになる。

失った夢はもう完全には戻らないかもしれないけれど、それでも嘗て自分が信じた生き方に忠実でいられますか》

一年前...

僕が現在通っている大学は受験生時代、「受験することすら想定していなかった」レベルの大学でした 。


僕の第一志望は地元の名門である名古屋大学

当時の自分にとって受験は文字どおり人生を懸けた挑戦でした。

僕の人生設計は、努力の末に旧帝大に受かり、その後の人生は“勝ち組”としてエリート街道を歩むことであり、そうした人生を自分が送ることをひたすら夢見て毎日毎日必死に受験勉強に捧げてきました。


《最後まで受かると信じてやってきた》

《他の誰よりも行きたいと強く願っていた》

《自分は名大に入るに相応しい人間だと思っていた》

《努力は報われると証明したかった》




けれどそれは叶いませんでした。


合格発表の日、掲示板を見て自分の番号が無かったのを見たとき、

『ああ、どうせ落ちるくらいなら初めから頑張らなければよかった』

と真っ先に思いました。

帰りの電車の中で、何度もなんども自分の受験番号と合格者の画面を確認しても、そこに自分の番号は存在しなかった。

ひたすら家で声をあげて泣いて、これまで自分がやってきた参考書や問題集、プリントの山を見返してはまた涙が止まらなくなって...。

応援してくれていた人、期待してくれていた人、一緒に頑張ってきた仲間、

何より
《これまで頑張ってきた自分自身に対する申し訳なさ》


この想いは今でもずっと自分の心の中にあります。

僕が今頑張っているのはこの“贖罪意識”が大部分を占めていることは否定できません。

自分の実力よりも上の大学を目指して失敗し、本意でない大学に入って“こんな大学に入るつもりなどさらさら無かった”という想いを一生引きずって生きるくらいなら、最初から「そこそこ頑張れば余裕で入れるレベル」を目指していれば心の傷は浅く済んだことでしょう。


今の大学を悪く言うつもりは決してありません。

学生は真面目で温かい方が多く、教授も熱心に指導してくださり、施設に対しても不満はありません。

何より自分を受け入れてくれる“居場所”がある。


それでも本当に気持ちが通じ合えるのは同じ境遇を味わってきた人間だけです。

志望校への想いが強ければ強いほど、落ちてしまったときの辛さや苦しみは想像を絶するものなのです。

【受験や学歴が全てではない】ことも

【10代後半時点での自分の能力が届かなかっただけなのだ】ということも

【今の大学だからこそ出会えた人、学んだこともたくさんある】

という事は頭では分かっていても、


未だに受験に失敗した時のことを思い出して、泣きそうになるし、自分のキャリアのおいて、《この経歴を一生背負って劣等感を抱きながら生きざるを得ないという事実に生涯苦しめられる》ことになる。