旧帝落ち地方公立大生のブログ

地方公立大学2年。ある現象の背後に存在するものを見抜いて、言語化するブログ。

抜きんでた人材の扱い方

日本では、傑出した特異な存在が育ちにくい風土があると言われている。

《いつの時代も突き抜けた能力を有した人間は限られている中でそういった人材をいかにして育て、社会の発展に貢献させられるか》というのは国策を考えていく上で見逃してはならない視点であると個人的に思っている。

トップレベルの才能を持っている人間を早くに見出し、恣意的に選別することで高い能力を伸ばすために系統的な教育を施し上位3%の「ハイタレント」を育成しようといった試みには、1963年に経済審議会が公表した『経済発展における人的開発の課題と対策』がある。

http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000001041238-00/

こうした政策は所謂「選択と集中」の結果、より優れた能力を持った個体が優位に発現させることを企図しています。

しかしながら、このような策略で「本物の天才」を探り当てることは容易なことではないと思う。

何故ならば、

《能力の必然がなければ、偶然の幸いは活かせない》

という言葉に示されるように、素質は適切な環境が与えられた結果初めて発現するものだからです。当人がどのような能力を持っているかは、事後的にしか判断できないケースも多々見受けられるのではないでしょうか。

 

加えて、イノベーションを起こすような人材は既存の尺度や物差しでは測り得ないものです。その才能が先鋭的・前衛的・画期的なものであればあるほど、そうした能力を有した存在は社会からは「異端」として退けられ、憂き目にあってしまう確率が高い。

多様性を受け入れることのできる自由闊達な組織でなければ、真のイノベーションは生み出されません。

日本は科学技術振興費として拠出するのは専ら産業界と連携し経済的利益をもたらすことが高い確率で予測される、成功可能性が高い企画にばかり予算をつけていると言われている。

既存の教育体制は真面目で協調性があり、上からの命令に従順な労働力を組織的に生産することに傾倒し、個々人が有したポテンシャルを最大化させることを制度的に阻害しているのではないかと疑ってしまうほどです。

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本来「本物」が潰されることなく適切に育っていけば、社会全体にとっても多大なる利益をもたらすことになるはずなのですが、日本特有の「出る杭は打つ」という愚かな大衆メンタリティーによって本来の才能が開花することなく集団に埋没してしまっては本末転倒です。

自分より優れた存在、成功しそうな人間が自分と近いレベルに収まることを望み、引きずり下ろそうと考えてしまうことはとても愚かな行為だと思う。

〈行き過ぎた平等思想が社会を破滅に導くことは社会主義国の崩壊によって人類は既に証明してきたはずです〉

“優れた能力を持った者は稀有な存在であり、順当に育ってもらわなければ困る”という価値観が通念として広まっていっていけば才能が埋もれずに済むのですが...。

 

天才という存在にとっては、標準スペックの人間に合わせてつくられた世間で生きていくにはあまりにも生きづらさを感じさせる要素が多過ぎます。

詰まるところ、天才が凡人の集団に入ってしまうと、互いに足を引っ張りあってろくな結果をもたらさないため、天才は集団か個人でしか最大出力を発揮することが出来ないということですね。

とりわけ成長速度が早い時期に周囲の大人が社会の価値観に無理に押し込み、未来の可能性ある子供たちがポテンシャル開花に至るまでの阻害要因となっては元も子もない。

 

人間社会の本質

僕らは現代のグローバル経済という特定の空間時系列の下で生きているが、国外に目を向けたところで経済成長に行き詰まり、従来の躍進を遂げることができなくなっているのは先進諸国共通の問題だとアメリカ🇺🇸留学を経て感じた。

つまり、メタレベルの視点で考えると日本という国が直面している課題の根幹部分には多くの国家が頭を悩ましている諸課題と共通する側面が多々含まれている。


加えて僕自身が強く実感した事は、

〈此の世の中は有形無形資産に関わらず巨大なゼロサムゲームの原理によって上から下まで貫かれている〉ということ。

ゼロサムゲームというのは“あるプレーヤーの利益が増せば、その分だけ他のプレーヤーの損失が増える”というゲーム理論の概念だ。

身近なことで例えるならば、じゃんけん✋
じゃんけんでは、あるプレーヤーが勝利すれば他のプレーヤーが敗北を被ることになる。

言うまでもなく、スポーツや利害が絡み雌雄を決する勝負事にはこの原理が適用されるが、これは恐らく他の多くの事象に関しても当て嵌まるのではないかと僕は思っている。

マルクスも言ってたけど、社会全体の資源が有限であり拡大余地のない市場では競争がより強化されれば、当然のことながら、極一部の勝者と大部分の敗者に分離してゆくのは不可避的な現象なんです。

(ある時間軸上において富の総量が常に一定で不変的だと仮定しています。実際には技術革新によって富の総量自体は増え続けているが、それに伴う弊害も環境破壊や公害、エネルギー資源の枯渇など多々有る)

さらに僕が強調しておきたいのは、こうした現象は物理的次元のみならず精神的次元においても紛れもなく存在するということ。

承認欲求や比較優位による充足感をある集団の構成員の全員に際限なく与えることは不可能なことがそれらを物語っている。

さらには一見無制限に注がれると思われる“愛情”に関してもそう。

【自分にとって大切な人、大好きな存在を喪ったときの哀しみの大きさは、相手への愛情の深さや共に過ごしてきた幸せな時間の長さに比例する】

【希望が裏切られたときの絶望は抱いていた希望の大きさに比例する】

【安価で質の良い製品を享受できる人がいる一方で、背後には底賃金で過酷な労働を強いられる外国人労働者の存在があるのだ】

【美味しい食事を嗜める人がいる一方で、飢餓に苦しむ人、殺された畜産、化学肥料による環境破壊などによる数え切れないほどの損失を伴っている現実がある】

要するに、
《幸福と不幸は、全体の利得の総和はトータルで見れば常にプラスマイナスゼロなのかも知れない》

功利主義社会は表層では光の側面しか照らされない一方で、それらが抱える闇は想像以上に深い。

〈人間は皆平等な存在だといった美辞麗句は幻想で、いくら文明が進歩しても人類がみな等しく幸福になることなどあり得ないんじゃないか〉と僕はニューヨーク🗽の街並みを眺めている中でふと思った。

仮に自分が幸福であり、恵まれていると感じているならば、それはきっと誰かの不幸の上に成り立っているという事を胸に留めておかなければいつか痛い目をみることになる。


まあでも世界は僕らの想像以上にずっとずっと広くて様々な場所がある。資本主義社会は利潤追求・効率化に向かいひとつの神話で世界を覆い尽くそうとしてきたかのようにも見えるけれど、現実にはそれは物事の一側面でしかなく、世界の文節の仕方次第で様々な様態を見せる。

我々の生活は、極めて脆弱な基盤の上に成り立っているという自覚があるかどうかで大きく変わってくる気がする。

他の誰でもない自分の人生を歩もうと思ったならば、思考停止して大勢と並んで歩くのでなく、社会が要請する圧力や参加から一定の距離を置いて、自己の責任において判断する能動的な意思決定を持つことが不可欠なのだろう。

当たり前の事のようにも思えるけれど、

〈自分自身の心ときちんと向き合うこと〉

〈一人ひとりとの出会いを大切にすること〉

この2つを積み重ねていけるかどうかで人生って大きく変わっていくんだろうな。
そんな事を都市圏から離れた田園地帯に佇む静かな学生街で感じとった。

現代における哲学の担う役割とは

高校時代までは、「学業成績」や「帰属集団における相対的地位(=スクールカースト)」、「友達の多さ」といった絶対的な評価軸が存在し、そうした世界で生きてきた人間が大学に入学して以降、社会におけるあまりの評価基準の多様さに打ちひしがれるのは通過儀礼の一種であるようにも感じます。

『世の中にはいろんな人がいて、その数だけ考え方、価値判断の基準が存在する』

『そして世の中には万物に普遍的に妥当する真理などありやしない。 それでも人は何らかの拠りどころを必要とする生き物なのだ』

そうした中で人間にとって根源的なテーマであるような、
人生をどう生きるべきか、時間とはなにか、生きるとはなにか、人は何に幸福を見出すのか、労働のあるべき姿とは、世界は何によって構成されているのか、神は存在するのか、

といった思考を突き詰めていくとその終着点は哲学に行き着くのだと思います。

よく巷では「哲学なんて何の役に立つんだよwww」といった声も耳にしますが、多かれ少なかれ僕らは理性を用いて日々思考しながら生きている以上、自分自身の価値観や考え方といったものがあるはずです。

Wikipediaさんによると

《哲学とは物事の根本を明らかにし、かつ全体の包括的な枠組みを示すための知的な取り組み》

要するに「哲学は物事の本質や人間の思考を明らかにして説明づけ、現実世界に繋ぎとめる」役割を果たしていると

その際に「概念」や「原理」といった枠組みを用いて、世界や万物などを論理的に説明するための素材として哲学的な視点や考え方があると、自分の思考を組み立て、より洗練されたものになりやすくなると思います。


普通に素直に育つと社会の常識的な思想をなんとなく受け継いで量産型常識人になる。
より自分らしく生きたければ世間の思想や価値観を疑い、自分なりに思想や価値観を組み立てなおす必要がある。そのための思考訓練、思考の材料として思想や哲学が使える(@nobupoli)

所詮、僕らが考えるようなことは過去の偉大な先人達がもっと深く掘り下げて考えてきた境地であるということです。
彼らが後世に残した思想から得られるものを素直に学びとろうとする姿勢が大切なのではないでしょうか。

自分の思考のベースを形作り、自律した考えをもった大人になる為に哲学は非常に有用な学問だと思います。

ニューヨーク&トロント主要観光地まとめ

春休みを利用してアメリカ(ニューヨーク州)とカナダ(トロント)に行ってきたので写真をまとめて乗っけておきます。

《ニューヨーク・マンハッタン》

街並み

セントラルパーク(Central Park)

Belvedere Castle

タイムズスクエア(Times Square)


国際連合 (United Nations Headquarters)



エンパイア・ステート・ビルディング
(Empire State Building)


トランプ・タワー (Trump Tower)

ロックフェラーセンター(Rockefeller Center)

自由の女神像(Statue of Liberty National Monument)

セント・パトリック大聖堂 (St. Patrick's Cathedral)

ニューヨーク近代美術館
(The Museum of Modern Art)

メトロポリタン美術館
(The Metropolitan Museum of Art)

ラジオシティ・ミュージックホール
(Radio City Music Hall)

ニューヨーク公立図書館
(New York Public Library)

アメリカ自然史博物館
(American Museum of Natural History)

ニューヨークお土産


トロント.Toronto》

ナイアガラ・フォールズ(Niagara Falls)

ナイアガラ周辺

アメリカ🇺🇸・カナダ🇨🇦国境

ロイヤルオンタリオ博物館
(Royal Ontario Museum)

CNタワー(CN Tower)

ロジャース・センター(Rogers Centre)

カーサ・ローマ(Casa Loma)

自分の将来をどのようにして決めていけば良いのか

学生時代においては誰しも将来自分がどんな職業につけば良いのだろうかと思案に暮れるのはきっと誰しもが経験のあることではないでしょうか。

自分のキャリアを考えていく過程において僕が重視している労働や職業に対する考えや視点に関してノート📔に書き記してあるものをプログに載せておきます。


まず個人的な属性に関して、

自分の能力・性能・才能
境遇・人生観・価値観
人間の在り方

といった資質の中で、どういった基準を重視するかの比率はその人の性向や人生経験、時代や社会の情勢・空気といった様々な要素が関係しているけれど、その中で「ぼんやりと見えてきたもの」から、“これが自分の進む道”だと思えるものを探ぐっていく過程がとても大切だと個人的に思っている。

一部の例外的な存在を除いて、大部分の人間は思考量・行動量の総和から得られる内省と純粋な経験体験を通して蓄積されたストックによって自分の手持ちのカードを切りながら人生を生き抜いていく。

僕は学生時代や若い時期というのは、基本的に
「積み上げていく人生観を持つべき」時期だと思っている。

《自分のスペックを上げる努力を惜しまないこと》
《視野を広げること》
これらを高めていく事が何よりも大切な事だと思う。

そもそも人の人生は有限だけど、全体を十分に活用すれば、偉大な事を成し遂げるに足る潤沢な時間が与えられている。生涯をかけてやりたい事がある人間はそういった意味で強い。

それに自分がどこに向かって進んでいるのかも分からないまま日々を過ごしていくことは、過ぎ去った過去に意味付けを行うのが難しくなる。

畢竟すると、
〈自分は何の為にそれをしているのか〉ということを常に確認しながら進まなければ、短期的な満足感は得られても、実際には何も身になっていないという事態に陥りかねない。

さてこれまで長々と人生や資本主義社会の労働について綴ってきたが、要するに僕が自分のキャリアを決めていく上でどういう視点で選んでいくべきだと思っているのかというと、究極的に

《プロフェッショナルとして生きていくか》

《代替可能な労働力として生きていくか》

の2択だと思っている。

常人の仕事というのは基本的に独自性が求められず、規格化・細分化された結果、マニュアル通り一定の手順を踏めば、業務遂行に要する基準に適合してさえいれば、

“自分ではない他の誰かによっても代替可能なもの”であるという事。

端的に表すと
《他者との交換可能性の有無》がプロフェッショナルかそうでないかを規定する重要な要因となります。


勿論、専門家・エキスパート・スペシャリスト・第一人者という言葉に示されるようにプロフェッショナルの条件として、

【ある職業・任務を行うのに必要かつ相応しい条件を証明する“資格”といった社会的証明】

【ある特定の領域・分野に特化している】

【《自分の有するスキル・ナレッジ×顕在・潜在的なニーズ》=独自コンテンツ】

【どんな悪条件でもとにかく結果を出すことが求められ、結果を残せなければ自然淘汰されていく熾烈な環境】

【自らに課せられた要求・業務に対するスピードと正確性への的確な対応】

【自分が価値を提供できる存在であるか否か】

【マニュアル化できないハイレベルな仕事のステージ】

といった事柄が存在します。

《プロの世界は決して甘くない》
そこで熾烈な争いが絶えず行われているからこそ、第一線で闘う人間は磨かれていく。

長期間にわたって活躍するにはどうしたら良いのかと絶えず自問自答し続けた人だけが長く活躍できるのでしょう。

他人から凄いと思われるものを生み出せる人間は途中、孤独な道を歩んできたことを知っておくべきです。


“生活の為”といった、専ら物質的な報酬や安定性を確保することを目的とするのであれば、組織に献身する過程を通じた範囲内で与えられた業務をこなしていくような労働形態を選んだ方がいい場合もあれば、

個性の発揮や自己実現、職業的役割を全うし、それを遂行する事で他者や社会に広く貢献し、他者から認められ、自分の存在を評価されたいといった『己の中に物語性を見出したい』人にとっては各分野のエキスパートとして創造的な価値を提供したり、専門性を積み上げて他人に求められるような仕事を選んでいった方がいい事もあります。

(もちろん前者においても客観的、間接的には匿名の非特定多数の人々に相互依存関係を成立させ、社会の維持・発展に一定程度寄与しているが、独自性の発揮や自律性、仕事への誇りといった側面での差異は厳然として存在する)

究極的には、
『社会との接点をどう持つか』に帰結する問題であると言っても差し支えないのかもしれません。

何が良くて何が悪いかなんて決めきれないし、未来なんて誰にも分からないのだからこそ、僕らはその時々で絶えず最善解を模索し続けていくしかない。


究極的には
「自分に合ってるなと思えるものが見つけれれば、それが正解なんじゃないか」と思う。

現代における職業と社会的位置付けの関係性

現代社会においては封建時代にあった身分による職業の固定化が、近代市民革命を経て、私有財産制と共に職業選択の自由(憲法22条1項)が保障されるようになった結果、名目上は個人が自己の従事する職業を自由に決定する権利を保有しています。

〈職業に貴賎はない〉という言葉もありますが、理念上ではともかく、現実的には《職業が今日では財産や家柄に代わって階層を決定する重要な要因になっている》のは否定できない事実でしょう。

これは主として、〈職務的役割の遂行と引き換えに一定の給与に規定された生活水準や生活機会、社会的地位が付与され、それらに相まって社会的な評価が下される〉ことに起因します。職業=自己の存在証明と言っても過言ではない程、その重要性は大きなものだと思います。


そしてここからは労働をめぐって様々な社会問題が提起されていますが、そうした背景にある近代資本主義社会特有のシステムから職業の位置付けを考えていきましょう。

資本主義が高度に発達し、産業革命後の合理化・機械化・分業化の趨勢を受け社会的分業が成立している現代においては、《労働が全体としてのまとまりや精神的意味合いを喪失し単調化し人間疎外が深刻化している》といった批判は現代の労働問題を考える上で頻繁に目にする言説です。

この問題を考えるうえで、重要な視座として
《経営の本質とは利益を生み出すこと》に他ならないという事が挙げられると思います。

これを図式化すると【利益=収益ー費用】という形で表される為に、経営者にとって雇用労働者は費用の一部に過ぎない、すなわち会社に利益をもたらすことが第一義的となり、会社の歯車⚙を回す部品(代替可能な道具、駒)という事になります。歯車としての希少性によって組織内の自分のポジション(位置関係)が決定する。

〈組織は最終的には上層部が決定権を握っているため決して闘いを挑んではならない〉ということは心に留めおくべきでしょう。

変化の激しい現代においては、昨今で言うならば過労自殺、長期間労働、不払い賃金、派遣切りなどの一連の事件に代表されるように企業に隷属する雇われの身であれば、都合の良いようにスポイルされ不要になれば切り捨てられるといった事は往々にして有り得ます。

過酷な労働条件に見合わない安価な賃金で雇える若い労働力を現場で酷使し、収益を上げることが事業存続に必要なビジネスモデルとして常態化している。

経営者というのは重大な責任を背負って働いているのであり、成果を出さなくては全てが破産してしまう。資本主義という原理上、他の企業との競争に勝ち抜かなければ、最悪の場合には会社は倒産し従業員を路頭に迷わせてしまうことにもなる。ギリギリのラインで保たれている中で、悠長なことを言ってはいられない時代になっているということ。

(これは経営者の方のTweetなどを拝見する中で、こういった思想を持つ方は少数派ではなく、まして一個人が例外的に非情な性質を帯びているという訳でもなく、そうでもしなければ激しい競争を生き延びる事が出来ないという弱肉強食の資本主義というシステムそのものに端を発するものであると見たほうが良いと感じた)

基本的に《仕事とは職業に課された要求に応えること》です。上記で述べたように企業という性質上、利益を得ることを一義的に考えた上で《事業の効率化》という概念は極めて重要であり組織運営を行っていく際に絶対に外せない視点となります。

効率化を図ることを志向する中で、労働者には「淡々と与えられた業務をこなす」、すなわち組織内で各々が“自分に課せられた役割を全うする”ことが求められる。

分業化・細分化がなされ、単調な作業をひたすら処理する過程では、労働にやりがいや自己実現を求めることは困難であり、キャリア形成においても不利となり、給与面でも報われづらいのが現実です。


優勝劣敗の人間社会において、労使関係が対等であるべきだというのは理想に留まり、最初から社会がそういう仕組みで動いてると分かっているのであれば、そうした中で自分が生きやすい道を選択することが各人の生き方を考えていく上で重要な視点であると思います。


次に、現代の職業類型を主に7パターンに区分すると次のようになります。

専門・管理・事務・販売
熟練・半熟練・非熟練

上記の4つが俗に「ホワイトカラー(非肉体労働)」
下記の3つが「ブルーカラー(肉体労働)」と言われる職業です。

これらをより単純化すると、
【具体的な指示を出す人】
↕️
【指示を受けて作業を遂行する人】に類型化されます。


産業構造の変容に関して『ポスト工業化社会論』を唱えたアメリカの社会学者ダニエル・ベルのいうように

《脱工業化した社会のおいては、理論的・技術的な知識が中心的な意義を有し、それらを担う専門的・技術的階層に優位性がある》ことが、現実的に専門や管理を担当する職業に高い社会的評価が与えられ上層を形成し、一方で非熟練で単純な作業が課せられる職業は下位層に位置付けられることが多いことを示唆しています。

こうした格付けは高度な専門知識・技能や責任の重大性の如何を基準にして行われることが多く、その職業が
《機能的に重要であり、希少価値が高ければ高いほどシステマティックに上層部に吊り上げられるようになる傾向があります》

(中には知識を悪用してバカから搾取する構造を意図的に作りだし富を遍在化してるっていう側面もあるんだけどね)


どのようにして世の中が回ってるのかが見えてる人間は強い。普通の人間は社会人として数年過ごしていくうちに分かってくる場合が多いのだけども、見えてるやつには中高生の段階で実感値としてある。
逆に40、50代になっても分からない人間もおそらく大勢いる。
口には出してなくても、“何となくこうなんだろうな”と思えるものが、発達段階を経ていく間に“やっぱりそうだったんだな”と徐々に確信を深めていくパターンが一般的に多いのではないだろうか。
こうした差が将来的に埋めがたい程の圧倒的な差となって表れてくるのではないかと個人的に思っている。

以上を通して現代社会の大枠を俯瞰したうえで、
“それでは私たちはどのようにして自分の職業を選択していけば良いのか”ということについては、次の記事に詳細に書きます。

概念の操作

よく自分の脳内で頻繁に登場するキーワードを列挙してみました。
こうして改めて振り返ってみると自分が関心のある領域が浮かび上がってきて、自分の思考を俯瞰できるのでお勧めです笑


ライフヒストリー
ポテンシャル(可能性)
世界の彩られ方
社会の仕組み
精神分析
ナラティブセラピー
社会階層
実現可能性
価値の相対化
断片的なものを紡ぐ
学術的知見の援用
アフォメーション
経験の再現性
精神的な成熟度
言語運用能力
情報の集約
実利的関心
上位概念による包括
多数派による専制
自己と他者の多角的認識
努力の影響範囲の大きさ
限られた人間のみが辿り着ける領域
緻密な論理
分析ツール
抽象的思考
遺伝子解析技術
許された特権
身の上話
自助組織
自発性
環境への接続
自己変容
受け入れ難い現実の直視
キャリア教育
分かち合い
感情プログラムのインストール
遠大な目標
高次元への憧憬
原体験
境遇
素質や才能
覚悟
価値観の相違

《キャリアコンサルタント